2013年12月20日金曜日

第45回:DISEASE

DISEASE= 病気

DIS=不~・非~・無~など~できない。
EASE= 楽・気軽・安心・ゆるむ

病気とは、「楽になれれない」「安心できない」「ゆるめない」状態。

The Body is a Unit = 身体は一つである。オステオパシーの原則の一つ。
人間が「BODY」「MIND」「SPIRIT」で構成されているとすれば、病気の状態とは、そのうちのどれかが、もしくは、その全てが「DIS・EASE=ゆるめない状態」になっている可能性がある。

WHO(世界保健機関)は健康を次のように定義している。
「身体的・精神的・社会的に完全に良好な状態であり、たんに病気あるいは虚弱でないことではない。」

WHOの定義もこのことを現わしているようだ。

BODY=筋肉・骨・筋膜・神経・血管・内臓・リンパ管・細胞
MIND=不安・恐怖・イライラ・焦燥・嫉妬・緊張
SPIRIT= 気力・意識・想い・理性・知性

治療とは、これらが「DISEASE」になっていたら、それを「EASE」にすることを目標にすれば良いのだろう。

BODY、特に筋肉だとイメージがつきやすい。
硬くなった筋肉を柔らかくする。

しかし、これはMINDやSPIRITにも起こる。多くの患者さんはこちらに問題があるほうが多い。
これらの問題は、BODYを使ってその存在を表現する。「痛み」として表現されることが多い。

BODYにある、その警告を無視しつづけると、「心」に症状が移行する。
移行するというよりは、本来の問題に戻っていくという感じだろう。

精神疾患と慢性痛の関係性はこれで説明がつく。

私は、ぎっくり腰も寝違いもうつ病もその発症に大きな違いはないと思っている。
その警告が、BODYにあるかMINDにあるかの違いだけ。

どこかに痛みや不調があるということは、身体からのなんらかの「警告」である。
その「警告」を無視してはいけない。

健康になろうと思えば、自分の身体の声を良く聞き、EASEになる方法を見つける努力をすることだ。そして、治療は、そのきっかけを見つける手伝いをすること。

EASEになる方法は、その環境を変えることが難しいと思えば思うほどその解決策を実行するのが困難だと思う傾向にある。自分で自分を縛っている。

仕事を休みたい。転職したい。恋人と別れたい。離婚したい。お金がない。
運動をしたい。食生活を正したい。

何が「DISEASE」の原因になっているのかがわからないという場合もある。
原因がわからないのに、何をすれば良いのかという質問を頂く。

一つ確実なことは、身体からの警告は、「今の生き方は、あなたに合っていない」「あなたは無理をしている」と教えてくれているということだ。

この警告を尊重して、身体を健康にするために良いと思うことをしてみることだ。
治療もその中の一つなのだろう。

その行為が本当に健康に良いかどうかというのは二の次で、自分が自分の健康のために自分で決めたことを行うと、その行為は必ず自分に対してポジティブに働く。

身体の硬い赤ちゃんはいない。身体が硬くなるのは後天的なもの。
厳しい環境により作られる。

不調は身体からの警告!感謝するべきもの。

無視もできるし、尊重もできる。
全て自分の選択次第。自分が選択したように身体は反応する。
身体は、自分の生きてきた証。

治りたいと思えば、治ろうとしてくれる。
無理だと思えば、次の警告を出してくれる。

自分の身体の声を聞き、身体の喜ぶ生きたかを選択してみては。

新年の抱負は何にしようかな?


2013年10月17日木曜日

第44回:自己表現!

今年になりオステオパシーを教える機会を多く頂いている。
日曜日は、2014年の年末までほぼ埋まっている。本当にありがたいことだ。

まだまだ小さなムーブメントだが、いずれ大きな動きになって欲しい。最終的には、鍼灸や柔整と同じくらいの認知度、地位にするのが目標だ。教育機関、学位など制度としても整えていきたい。
オステオパシーほど筋骨格に特化している治療法はないのではないだろうか。日本の柔整・鍼灸の先生にも抵抗なく取り入れてもらえるだろう。

いまの日本のオステオパシーのようにアンダーグラウンドの活動ではだめだ。誰がどこでなにをやっているのかが全くわからないし、拡げるというよりはそれぞれの枠に囲い込むという印象のほうが強い。そこにいる人だけが優越感を感じている。オステオパシーの断片しか伝わっていないような気がする。日本のオステオパシーの形を明確にして世界に発信していくようにならなくてはだめだ。いつまでの世界のあちこちから先生を呼んでセミナーをありがたがっているようでは進歩はない。

オステオパシーは全くスペシャルな手技ではない。手技だけならだれにでもできる。体格、性別を問わずにできる。この長所が全く活かされていないのではないだろうか。

きちんとオステオパシーの原則に従えば、それぞれの施術者、それぞれの患者さんに合った治療法・手技を選んで治療を進めることができる。

話しがそれてしまった。「自己表現。」

私が教えに行かせて頂くときに大切にしているところが一つある。それは、その会社や先生の治療に対する考え方、「理念」である。

「手技や知識を向上していき、その結果、より多くの患者さんを幸せにする。」

当たり前のようで、意外とこのように考えている人に会うことは少ない。ひどい時は、「手技を勉強しても患者数には関係ない。」とまで言われてしまう。これは、手技の本質を全く理解していない。

私は、「治療は自己表現!」と言っている。

知識を増やし、手技の精度を高める。これは自己を表現する方法でしかない。これだけでは十分ではない。

もちろん、その方法が多岐にわたり、精度が高いほうがよい。でも、表現には受け取る人がいる。その受け取り側がいて初めてその表現は活かされる。

その表現を受け入れてもられる、受け入れさせる。それを可能にするのが「自己」である。

結局、その方法(手技・知識)を磨いて行きつつ、自己も高めていかなければならない。
このバランスが悪いと、患者さんは、我々の表現を否定する。

いっぱい手技を知っている、知識が豊富。だけど患者さんには受け入れられない。これで手技が否定されても困る。

同じ手技でも効果に差がでるときがある。もちろん手技の精度もあるが、表現の仕方にもよる。でも、正解はない。自分が結果をどのようにとらえるかだ。

先日、「手技は大切、だが、一生懸命にやることはもっと大切」のような文をみた。
これは、一見もっともそうだが、実は全く違う。これでは手技は活きない。

「一生懸命な自己が、自分の持っている最高の手技」をやって初めて意味をなす。

どっちが凄いとか、大切ではない。両方とも欠かせない要素なのだ。これが「自己表現」だ。

年齢、経験、その時の体調などさまざまな要素があるが、その時々で、その時の自己を表現する。

治療はみんなが同じである必要はない。同じ手技でも全く同じにやる必要はない。
自分で消化して、自分なりに表現した方がはるかに素晴らしい。

知識も、手技も、自己もまだまだ未熟だ。冷や汗をかく毎日。
初めての症状、初めての手技、未知なる感覚。初めてのことに日々出会えることに感謝。

世の中には、いろいろな治療法がある。それぞれの創始者は、自分で考えその手技を生みだした。自分がその発想までいけば、自分で生み出せる、、、はず。

教えられて満足してはだめだ。逆に発想を止めてしまう。

やっぱり治療は、「自己表現。」 自分を爆発させるぜ!


2013年9月19日木曜日

第43回:治癒。

私が、オステオパシーを学ぼうとしたきっかけは、「治すってなんだろう?」という疑問を解決したかったからだ。

それまでの自分は多くの患者さんを集めることはできても、治すことはできていないのではないかと強く感じる時期があった。

このことに関しては、オーストラリアで若い先生とベテランの先生のある会話がとても印象に残っている。
若い先生が、私は常に6週間先まで予約が埋まっているという話をしたのに対し、ベテランの先生は、それはきちんと治していないからで、商売のために何かを操作しているんだと言った。

私のクラスメートはみんな若く仕事の経験も浅かったので、若い先生をうらやましそうに、そして、ベテランの先生は何を言っているのか?!という顔をしたが、私にはこの会話の意味が良く変わった。別にどっちが良いとかの話しではない。それぞれの治療に対する考え方が違うだけだ。

結局、このようにいろいろな考えがあるので、オーストラリアでも「治癒」に対する明確な答えは見つけることが出来なかった。正確には、「自分に合った治癒の考え方」には出会うことがなかった。

それが、先日アメリカに行ったときに「自分に合う考え方」に出会うことができた。セミナーの会場となったアメリカ、サンディエゴにあるOsteopathic Center for Babies and Familyの入り口に掲げられていた看板にその答えはあった。

「At the Osteopathic Center for Children, Our mission is to Help Children & their Families Reach thier FULL Potential」 

「子供とその家族がかれらの持っている最高のポテンシャルに到達するのを助ける!」

多分、これを見ても何も思わない人のほうが多いのかもしれない。でも、私はこれを見た瞬間に背中に電気が走るような衝撃を受けた。そして、思わず「すげぇ!」って言ってしまった。

「これだ!!」治癒ってこれなんだ。

ひとそれぞれのポテンシャル。そのひとが持っている最高のポテンシャルに到達する手伝いをする。

だから、我々は「道案内人」で良いのだ。あるところまでは連れていくことができても、最後は自分で越えていかなければいけないことがある。最後の門は自分でまたがなくてはいけない。

この10年くらいずっとこのことを考えていた。やっと出会ったような気がする。
でも、10年くらいで出会えたのはラッキーなのかもしれない。

あとはこれを実行していくだけだ。迷いはない。

赤ちゃんのポテンシャル、妊婦さんのポテンシャル。障害を持っている人のポテンシャル、それぞれの人のポテンシャルを感じ、引き出す。簡単ではない。でも、できる。

そうすることで、自分のポテンシャルも引き出せる。

やっぱりオステオパシーをやって良かった。


2013年9月6日金曜日

第42回:クラニアルオステオパシー

FaceBookにオーストラリアとイギリスのオステオパスを中心としたフォーラムがある。そのなかでいつも議論の中心になるのが「クラニアルオステオパシー(頭蓋オステオパシー)」についてである。

どうして議論の中心になるかというと、その「エビデンス」が乏しいからである。

頭蓋オステオパシーの創始者Drサザーランドは、頭蓋もそれぞれの縫合で動きがあり、肺呼吸と同じように固有の呼吸リズムを有していると説いた。彼は、彼の一生をかけてその動きやメカニズムを証明しようとしたが、それはついに叶わなかった。

現在、縫合に動きがあるというのは認められているが、その呼吸メカニズムに関しては証明されていない。

そのメカニズムが明瞭でない手技を学校では教えるべきではないという意見も出てきているし、近い将来そうなるのではないだろうか。学校を卒業して勉強したい人だけが勉強するべきというのが大方の意見だ。さびしい限りだ。

学生のころも頭蓋が好きとか言っているのは私くらいなもので、生徒たちだけでなく先生たちも頭蓋はプラシーボか副交感神経系を優位にしているだけだという意見が多かった。

頭蓋オステオパシーは、オステオパシーとしては認められないという意見まである。これは、Drバレルの内臓マニピュレーションも同じように言われている。その手技が効果をだしているとする「エビデンス」が乏しいのだ。プラシーボとの違いを明確に示すことができない。

日本人には比較的受け入れやすい頭蓋治療。西洋では全く違う捉えられ方をしている。その背景には、日本人は論文にアクセスしずらいので「エビデンス」を気にしない傾向にあるからなのだろうか。それとも、文化的に白・黒はっきりしないものを受け入れやすい人種だからなのだろうか。

「エビデンスベースドメディスン」とはなんなのだろう。

《「科学的根拠に基づく医療」の意》医師の個人的な経験や慣習などに依存した治療法を排除し、科学的に検証された最新の研究成果に基づいて医療を実践すること。1990年代に提唱され、西洋医学の医療において重要視されている。(デジタル大辞泉)

大学の授業で、オステオパシーの研究で有名な先生が「エビデンス」を追求することでオステオパシーの枠を狭くしてしまうのではないかと、オステオパシーの未来を危惧していた。

他のベテラン先生は、自分で効果があると思った手技は使うし、「エビデンス」は気にしないと言っていた。

東洋医学ではどうなのだろう。「気」「経穴」「経絡」というものに「エビデンス」というのもが存在するのだろうか。

プラシーボを完全に排除して研究できるだろうか。

同じように手技をしても、人によって効果のでかたが違ってしまうのではないだろうか。これは経験年数だけで埋まる問題ではないような気がする。
どうなのだろう。

「エビデンス」なんて関係ないって思ってしまってはいけない。治療家としては、常に新しい情報を取り入れていく必要はある。義務であろう。

その結果、自分が効果があると思っていた治療に「プラシーボ以上の効果がない」という結果が出た時にどのように感じるのだろう。自分が効果をだしていると思っていた治療が、実はプラシーボ効果なのだ。

私は鍼灸も頭蓋オステオパシーにも大きな効果を感じている。時には、自分の想像以上の効果が得られる時もある。
未知なる部分が多くあるのにも魅力を感じる。そこには無限の可能性があるからだ。

7月にアメリカにセミナーに行った時も、Drフライマンが「私は頭蓋だけを治療しているのではなく、頭蓋を通してオステオパシー的(全身的)に治療している」と言っていた。

この感覚が大切なのではないだろうか。この発想がないと、頭蓋オステオパシーはオステオパシーではないとかなってしまう。
手技は残っても、創始者の想いまでは伝わらない。

こうなったら自分で「エビデンス」をみつけていくしかない?!

2013年8月14日水曜日

第41回:アメリカ研修を終えて

2013年7月21日から26日までBasic Cranial courseに参加、その後、26日から28日までIntensive Pediatric courseに参加してきた。その体験を忘れないように書きとめておこうと思う。

場所は、アメリカ、サンディエゴ。Drサザーランドの弟子のなかでただ一人生きているDrフライマンが1982年に開いたOsteopathy Center for Children & Families.

去年から行きたいと思っていたのだが、去年のこの時期はオーストラリアから帰国したばかりで何かと忙しく参加できなかった。しかし、あきらめはつかず、このセンターのHPをちょこちょこチェックしていると今年は7月に開催とのこと。そして、Drフライマンが行う最後のセミナーとの記載もあり、参加を躊躇する理由がなくなりその場で申し込み(5月)。セミナーの内容ももちろんなのだが、なによりもオステオパシーの歴史をこの目で見たいという思いが強い。

申し込みした日から勉強を始めよう思っていたのだが、今年はATC,骨塾、外部セミナー、そして、それらの資料づくり、治療の振り返りなどに追われてなかなかできず。結局、7月に入って解剖の復習を少ししかせずに参加することに。(これはほぼ言いわけ)

日本時間の7月21日(日)の昼に出発。ロス経由でサンディエゴに着いたのが現地時間の7月21日(日)のお昼頃。完全に時間の感覚がなくなる。オーストラリアは時差がほとんどなかったので今回もあまり意識をしていなかったが、時差はやっぱりつらい。

飛行機に乗る前は、少しの不安を感じていた。やはり行ったことのない土地に行く不安を感じているのだろうか。しかし、それとともに大きな期待も感じている。この感じは2006年にオートラリアに行く前の感覚に近い。ワクワク・ドキドキ!

ホテルに着き会場となるクリニックの場所を確認。このホテルは主催者が推薦してくれているところ。にも関わらず歩いたら1時間以上。お勧めの場所だからてっきり歩いて行ける距離だと思っていた。あわててホテルの受付の人に行き方を確認。バスを使えとのこと。マジか?!1週間の滞在で事故は起こしたくないので車は使いたくないしタクシーだと往復50ドル。これはバスしかない。その日は、バス停と時刻表を確認して終了。

セミナーが8時開始だったので、毎日6時に起きて朝ごはんを食べ、6時45分のバスに乗って会場へ。バスの運転手に降りたいところを伝え、着いたら教えてくれるように頼んでおく。どの運転手さんも教えてくれるので迷わずに行くことができた。しかし、他の参加者に「バスできた」と伝えるとびっくりされた。車社会のアメリカで「いわゆる普通の人」はあまりバスは使わないみたい。みんなに「気をつけてね」と言われる。実際バス停やバスの中にはいろいろな人がいた。そして、そのなかにアジア人1人というなんともしがたいアウェー感。でも、オーストラリアで慣れていたので良かった。初めてだったらきっと乗れなかったと思う。

そんなバス生活も幸運なことに最後の3日間はアラスカで唯一の手技を使うオステオパス、Drオスワルドの車に乗っけてもらえることに。Drオスワルドは、20数年前。学生の時にDrフライマンの生徒だったとのこと。偶然にも彼の二男がうちの兄が教鞭をとっているUCDavis、それも兄がいる化学学部に9月から入学するとのことで意気投合。世の中本当に狭い。Drオスワルドは、勉強というよりもただDrフライマンに会いに来たとのこと。しかし、最後の3日間はペアを組んでずっと一緒に実技をやることができ、いろいろ教えてもらったり、治療してもらったり感謝、感激。個人授業状態。
最後に空港まで送ってもらい「いつでも勉強しにアラスカにおいで、そして困ったことがあったらいつでもメールしろと」と言ってアドレスも教えてもらえた。これでアラスカにも行ける。オステオパシー最高!

今回のセミナーの内容を一言で言い表すと「とても濃かった。」アメリカ人の参加者もこれまでいろいろなセミナー行ったけどこんなに内容が濃いセミナーは初めてと言っていたし、なによりも少人数なのが良いと言っていた。参加者は全部で25~30人程度。アルゼンチン、スペイン、ウクライナ、サウジアラビア、オーストラリア、シンガポール、ドイツ、そして日本。いろいろな国から来ていた。

そして、なによりも感動したのは講師陣。アメリカにはこのような先生がたくさんいるのかと思うと本当にうらやましい。質問にはとてもオープンになんでも教えてくれるし、どんどんいろいろなテクニックもみせてくれるし、やってくれる。こんな環境でオステオパシーをできるのはやはり歴史のたまもの。

日本も30年後はこのような状態になっているようにしたい。そのためには自分自身が成長していかなくては。今の日本のオステオパシー業界のように閉鎖的な業界に成長はない。どんどんオープンにしていかなくては。オステオパシーに秘密にするようなことは一切ない。むしろ教えてもらってもすぐにはできないことの方が多い。

講師陣の先生が随所に「Drサザーランドはこのように言っていた」「Drフライマンはこのように言っていた」「Drマグーンはこのように言っていた」そして、自分の経験を踏まえて話をしてくれる。オステオパシーの歴史を肌で感じる。感動の連続。これは、アメリカのこの場所でしか体験できないだろう。

しかしながら、アメリカの手技を使うオステオパスの減少も一途をだとっているようだ。学費がとても高いために、みんな儲かるほうへ流れてしまうとのことだった。アメリカのオステオパシーの30年後は今と少し違ってしまっているのではないだろうか。


そして、今回はじめて行われた子供オステオパシーのセミナー。Drセンタースという、Drフライマンと10年以上一緒に働いる先生によって行われた。いまでは、その評価はDrフライマンをしのぐと言われれている。

この先生は、「もう秘密の時代は終わった」と言ってセミナーを始めた。経験だけでなく、知識も圧倒的で自分の勉強不足と痛感。手技から理論どんな細かいことにも応え、教えてくれた。

オステオパシーの勉強に頂上はない。こんな世界を選んだということはとても幸せなことだ。

実際に、子供にデモンストレーションもしてくれる。もちろん我々も指導のもとにいろんな子供に治療をする。子供の検査の仕方、それぞれの症状の考え方、治療の仕方。どれも実に理論的。

「治療の世界に近道はなし」。本当にまだまだだ。知識も技術もまだまだだ。やらなくてはいけないことが山ほどある。そのことを再認識できただけでも今回来てよかった。

セミナーのなかで印象に残ったいくつかの言葉を書き留めておこう。

「我々は道案内だ」。オステオパスは患者さんのかだら・こころ・精神をよりよい方向へ導くのが仕事。あとは、患者さんの身体の仕事だ。

「我々は何人の人を治せるのか?」答えは「0人」オステオパスは道案内をするだけ。これがオステオパシー。
 
「その人がもっている最大のポテンシャルに到達させる」これは目から鱗。いままで治癒ってなんだろうって考えていたんだけど。これは凄い。ポテンシャルは人によって違う。
 
「治療する前に、その患者さんの美しいところを探しなさい。」これは本当に大切。だれもが「美しいところ」を持っている。それがポテンシャルにつながる。

セミナーが行われたクリニック。とても居心地が良かった。周りも緑に囲まれていて、治療中もまどから小鳥や小動物がいるのが見える。なんだか自分もほっとする。Drオスワルドも「ここは私にとってのパワースポットだ」といってセミナーが終わってもしばらく座ってその空間を楽しんでいた。なんかわかる気がしたので時間までとなりで座っていた。この様な雰囲気が治療をする雰囲気なんだなと思った。私も将来そのような治療院を持ちたい。緑もなく、コンクリートに囲まれたなかではエネルギーに限界があるのだろう。治療する方もされる方もすでにエネルギーが枯渇している。環境はとても大事だ。

今回のセミナーは衝撃的だった。アメリカのオステオパシーの歴史の深さ・凄さを感じた。これは、他の国では見ることができないだろう。どのテクニックも理論的だった。日本でこのような背景や理論まで知っている人はいないだろうか。これは日本だけでなくオーストラリアでもそうなのかもしれない。本当に行って良かった。

常に勉強だ。また、機会を見つけて参加しよう。

2013年5月30日木曜日

コラム:質と量2

先日「質と量」について書いたが、今日はそれにちょっと付け足しをしたいと思う。

「はじめに楽しさを教える!」

これは、いままでも繰り返しコラムで書いてきたことだ。

オーストラリアでは、スポーツを始めるとまずはそのスポーツは楽しいということを感じてもらうように指導する。
これは、スポーツに限ったことではなく学校なども同じように感じる。まずは、興味を湧かせる。そして、湧いた探究心を刺激してあげる。そうすれば自然とそのことに打ち込むようになる。

詳しくは分からないが、有名な"はなまる学習塾"もこのような考えを基にしているのではなかっただろうか(違ったらすいません)。

「楽しい」という感覚があるからこそ、そのことに打ち込める。

年齢やレベルとともに激しくなったとしても、自分が楽しいと思えれば頑張れる。必要と思える「激しさ」は乗り越えることができる。

「楽しい」→「上手になりたい」や「負けたくない」に欲求も変化していくのかもしれないが、その根底はそのことを好きかどうかということにある。

「自分がやりたいからやる」ということが大切だ。したがって、自分が望んでのきつい練習は意味をなす。反対に、心が燃え尽きているのに無理やりやらされることはいくらやっても意味がない。

小さい子にまるで「仕事」でも教えるように物事を教えたのでなかなかその楽しさは伝わらないだろう。

声を出せ、きっちり並べ、挨拶をしろ。ミスをするな。真面目にやれ。集中しろ。

無理、無理。

大人が面白くないことは、子供だって面白くない。自分たちが小さい時に嫌だ、つまらないと思ってたことを平気で強要する。この悪い循環をどこかで絶ち切れないものだろうか。

脳みそは、脳自体を成長させるために記憶をリセットするタイミングがある。そのリセットのタイミングにしっかりリセットさせないと、それ以上に詰め込むことができないために伸び悩みが生まれる。
小さい頃の英才教育がその後の人生にあまり意味をなさないのはこのためである。

最近うつ病など心の病気のことを耳にする機会が増えた。実際まわりでも悩んでいる人が増えたような気がする。ここでも大切なことは「楽しさ」だ。

自分がやりたいことを、自分のペースでやりたいようにやっていれば心の病は生まれない。
自分の心がときめいているのか。楽しいか楽しくないか。
自分の心を自分で縛らないようにすることだ。

しかし、小さい時に「仕事」を教えられてしまうと、大人になっても「楽しさ」を見出すことができなくなってしまう。むしろ「苦しさ」になってしまう。

「量をやれば質も上がる」という言葉を聞く。もちろんこれにも一理ある。しかし、この前提には自分からやりたいという気持ちや意図が必要となる。

メジャーリーガーの松井選手が入団当初から長島監督と素振りの練習をしていたと言っていた。
素振りという単調な作業を毎日1時間半行っていたそうだ。意思と意図がなければ継続できないし、上達もしなかっただろう。むりやり1時間半の素振りを強要されても続けることすら難しいだろう。

自分の中からあふれる欲求。これを見つけ、追及することができるかが重要だ。

だからこそ、人生の早い段階で「物事の楽しさ」を体験しなくてはならない。ほっといても厳しさはやってくる。それを自発的に乗り切るのか、無理やりなのかでは大きな違いとなる。

日本は、決まっていることをやることにおいては他の国を圧倒していると思う。ただ、発想や創造といった分野では後れを取っている。「恐怖」ではなく、「楽しい」をモチベーションに行動されては敵わない。「恐怖」はミスを恐れてしまうので、創造しなくなるし、チャレンジしなくなる。

「量より質」。自分の心が燃え尽きる前まで集中して行う。課題や意図をもって行う。短時間でも効果がある。
「質より量」。これは自発的に行わない限りは意味がない。もちろん意図も必要だ。

小さい子に何かを教える責任は大きい。その後の人生を左右してしまうのだから。

私も4人の子の親として何かに「楽しさ」を感じてもらえるようにしていきたい。



2013年5月28日火曜日

第40回:生き方を変える。

先日38回目の誕生日を迎え、本当にたくさん方からメッセージを頂いた。感謝、感謝。

その中に印象に残る言葉があったので、今日はそのことについて書いてみようと思う。

その言葉とは、「心もカラダも本当に変わりました」という一人の女性からのメッセージだ。
なぜ、この言葉が印象に残ったのかというと、「変わりました」という言葉に感動したからだ。

でも、私の感覚からすると「変わりました」ではなく、「変えることができました」なのである。

私は治療を通して2つのことをする。それは、身体のバランスが最適と思われる状態にすることと、より最適な状態に近づける、或いは、その状態を保つことができるようにいくつかのアドバイスをすることだ。

このように書くと「変わりました」でも良いように思えるかもしれない。実は違う。

私が身体を最適なバランスにするのではない。そのためのきっかけは与えるかもしれないが、あとは刺激を受けた身体が行なってくれる。身体には元来自然治癒力があり、ホメオスタシスという身体を常に一定に保とうとする働きが備わっている。それだけのことだ。

オステオパシーの創始者AT.スティルも「Find it, Fix it, and Leave it」と言っている。つまり「見つけて、治して、あとは放っておけ」ということだ。ここでいう"it" が何を指しているのかが重要になる。

身体が本来持っている治そうという力を信じることができるかどうかが大切だ。信じれば身体は必ず応えてくれる。あとは、それを待てるかどうかだ。

ここまではが私が少なからず関与できること。しかし、もうひとつのアドバイスへの反応は患者さんに委ねられる。

私は、身体が最適な状態に近づくことができるであろう事柄についてアドバイスをする。
生活習慣、食事、運動などなどそれは多岐にわたる。人によっては少ない時もあれば、とても多くの事柄を指摘する場合もある。

オーストラリアでは、自分が処方したアドバイスにもしっかり責任を持つように言われる。処方したアドバイスを患者さんが行なわない場合は、その責任は治療する側にあるというのだ。
でも、ここで重要になるのは患者さんにも責任があるということを認識してもらえるかだ。
いろいろ説明はするが、最終的にやるか、やらないかの判断は患者さんがする。

やるか、やらないかの間には何が介在しているのだろう。どちらにしても患者さんの選択だ。
いかなる選択にしても自分で選ぶということはとても大切だ。そして、行わないという選択肢を選んだ背景を考える。少しづつ見えてくる。

したがって、ここでも「変わりました」ではなく、「変えることができました」になる。やるという選択を自分でしたからだ。

症状とはその時の身体の状態を知らせてくれているサインだ。そのサインから原因であろう事柄を見つけ、その事柄を治すために必要なことを実行する。あとは、野となれ山となれ。「Find it, Fix it, and Leave it」。"it"が見えてきましたか?

今までの生き方では身体の良い状態は保てませんよ!と身体が教えてくれている。そうなればいままでの生き方を変えるだけだ。そして「心もカラダも本当に変わりました」となれば最高だ。

ちなみに、このメッセージをくれた方は、妊娠6カ月目に突入。夏が終わったころにはママになる。

つわりは大変そうだったが、それも楽しそうに?!乗り切り、妊婦さんライフを見事に満喫している。
お母さんがハッピーであれば、お腹の中のベイビーもさぞ快適なことだろう。ハッピーな子が生まれてくるはずだ。

今年も素敵な誕生日になりました。

2013年5月24日金曜日

第39回:オステオパシーとは?

オステオ日記といいつつ、オステオパシーから離れてしまうことも多いこのブログ。まぁそれも含めてオステオパシーなのですが。今日は、久々に本流オステオパシーについて書いてみる。

幸運なことに5月より骨塾(ほねじゅく)というオステオパシーの講座を26名の方々とともにスタートすることができた。感謝!全44回、約2年にわたるコース。これが最初で最後のコースという気持ちで全力疾走しようと思う。

オステオパシーとは?とても難しい。説明も理解も難しい。しかし、説明しなくてはいけない。

そこで、今私が感じているオステオパシーを説明させてもらった。

オステオパシーは哲学なのか?手技なのか?
オステオパシーは哲学です。

「骨の両端」を理解すること。骨の両端とは、解剖をしっかり理解することを意味すると同時に、「生と死」を考えることも意味している。

解剖への理解を深める。これは実に明確で理解しやすい。しかし、「生と死」は簡単ではない。
人はなぜ生まれ、なぜ死ぬのか。それだけではなく、健康、病気、治癒、人間、自然、宇宙などなどさまざまな要素を感じ、考えることなのではと解釈している。

それらが、「三位一体」=「身体、心&魂」の理解へとつながり、オステオパシーの原則の理解へつながるのだろう。

したがって、オステオパシーとは?への応えは個人、個人違って良いと思うし、正解もなければ間違いもない。自分で見つけることだ。

そして、それを「探究しつづける」ことになる。その時々で変わっていくこともあるだろう。

やっぱりオステオパシーは哲学だ。

そして、その自分の哲学を表現する方法が「手技」になる。

オステオパシーの創始者AT.スティルは、哲学、原則を教え、語りあったが、彼の手技を教えることをしなかった。彼は、哲学や原則をもとに生徒たちが自分たちに合った治療法を生みだしていくと強く信じていたからだ。したがって、教えられた手技をそのままやるとこを「愚かなこと」と言った。これは、サザーランドにしても、フルフォードにしても同じ考えであったようである。

今のオステオパシーは、この考える作業を排除してしまっているので、「愚かなこと」の繰り返しになっている。手技に上も下もない。いかに使うかが大切になる。これが「Intention=意図」だ。どの手技もその「意図」があるかないかで大きな差が生まれる。生きた手技になるのも、そうでなくするのも「意図」にかかっている。

その意図を生むのが「自分の哲学」になる。やはり考えなくてはならない。「探究しつづける」。
必然的に「探究しつづける」ことになる。

だいたいの手技は、そうした「意図」から試され、効果があることがわかり、他の人が真似をしても効果がみられた。そうすると、それを普及するために理論が必要になり後付けされているのではないだろうか。したがって、その「意図」が無視されると理論はあっても効果はでない。

フルフォードは、周りからいろいろ言われても諦めずに続けることだと言っている。続けられるかどうかは、「意図」にかかってくる。

少しややこしくなってしまったので整理をしてみる。

哲学:「骨の両端」と「三位一体」の理解。生、死、人間、自然、健康、病、、、。を自分なりに考える。

それを手技を使って表現する。そして、その哲学(自分の考え)と手技の間に「意図」が存在する。

人生をかけて「探究しつづける」。

これが、今現在私が考えているオステオパシーです。自分の人生や生き方を見直すことから始まるような気がします。皆さんのオステオパシーってどんなかんじですか?



2013年5月23日木曜日

コラム:質と量

最近、オーストラリアのプロラグビー選手を治療している関係で、日本のラグビーについていろいろ聞くことができる。
その内容がとても興味深いので書いてみたいと思う。

日本とオーストラリアのラグビーの違いについて聞いたところ「オーストラリアでは練習の質が重要視されるが、日本ではいまだに量が重要視される」という応えが返ってきた。いきなり核心をついている。いきなり過ぎて返す言葉も見つからない。納得。

これは、サントリーで活躍し、今はブランビーズで驚異的なパフォーマンスをしているジョージ・スミスも同じことを言っていたようだ。ジョージがオーストラリアに帰ってインタビューを受け「日本のラグビーは、練習は長いが試合数が少ないのでコンディションを整えるには良い」と応えている。

そして、オーストラリアでは、「常に量よりも質を重要に考えるように」コーチに言われるようだ。日本では、いつまでも練習していることが良いことだろう。これは、スポーツだけでなく、いつまでも会社に残っていることが良くて、早く帰ろうとすると冷たい目線という日本の社会全体にも反映している。「質より量」は日本の社会の根本的な考え方なのだろう。

スポーツを始めたころはそのスポーツの楽しさを教え、いざ本格的にプレイするようになったら量よりも質を追及していく。

言葉にすれば大したことではないのだが、意識するところが違う10年~15年は成長度に大きな変化をもたらすように思う。年齢とともに、楽しいから勝ちたいにかわり、自然とうまくなりたいという気持ちが芽生える。自然にというところが重要となる。

今回、日本の男子バレーの監督に日系アメリカ人の監督が就任した。アメリカでの実績は申し分ない。いままでは、コートで歯を見せるなという典型的な日本のスタイルでやっていたのが、練習のための練習はしないということで、試合の場面、場面にあった練習スタイルに変わったようだ。これがどのように成績につながっていくのかとても楽しみだし、ぜひとも良い結果がでてもらいたいとも思う。日本の選手は始めてプレーする楽しさを知るのではないだろうか。

日本の野球選手もメジャーに行ってその練習法に戸惑うという話を聞く。特に、ピッチャーは投球制限などの関係で調整が難しいようだ。これは、肩は消耗品という考えがあるからなのだろうが、裏をかえせば、「質より量」から「量より質」の変化に戸惑っているのではないだろうか。そして、その背景には、なぜ多く投げる必要性と不必要性という疑問を解消しなくてはならない。

私もオーストラリアにいた時に、勉強の仕方の違いに戸惑ったことがある。私は暗記人間だったので、何でも理解する前に、模範回答を作ってやみくもに暗記していくのだが、オーストラリアの友達は、その問題を細かく分解し、自分の言葉で、自分が納得できるように理解していく。テストの点は私のほうが良くても、その後、その知識を臨床に活かしていくタイミングになると大きな差が生まれている。この違いに気が付き、勉強のやり方を変えようとしたが、はじめはとてつもなく大変で、終わりがないように感じた。しかし、慣れてくるとそのほうが、点と線がつながるように理解が広がっていくので結果的には、効率的だと気がついた。

ラグビーに話を戻すと、日本ラグビーのシステムの問題も指摘していた。オーストラリアでは、本格的なラグビーの教育は16歳から始まり、20前後でプロ契約し、FWで24歳。BKで22歳くらいでナショナルチームに選ばれ始めるようだ。日本でも本格的に始まるのは16歳くらいで、大学に行き、トップリーグに入るのが22歳。このように書くと年齢的には同じようだが、彼がいうには、トップチームに入ってきたタイミングで身体ができていて、戦術を理解できるプレイヤーが少ないといい、日本は、22歳からラグビーを本格的に始めるから代表に選ばれるのが27,8歳になるという。それでは遅すぎというのだ。確かにSuper15をみていると、若い選手が多い。たまに10代の選手をみる。

彼は、ある一部の大学を除いては、きちんとした指導者、コーチがいないのではないかとも指摘していた。大学でいないのだから、高校ではさらに厳しいだろう。高校のときからきちんとしたウエイトトレーニングのやり方をしっているか、栄養について知っているのかだけでもその後の成長には大きな差となるし、もちろん戦術面ではその差は歴然となるだろう。

高校である程度実力があるプレイヤーは、大学に行きながらでも、ダイレクトにトップリーグに進み早い段階で戦術の理解や、肉体をつくり始められないのだろうか。2019年に日本でワールドカップが開催される。楽しみんで仕方がない。ホスト国として日本のラグビーが今以上に盛り上がってくれることを切に願う。それには、実力をつけなくてはならない。今の代表もとても力をつけてきている。過去最高なのは間違いない。しかし、それ以降も若い選手がどんどんでてこなければ盛り上がることはないだろう。今年Super15に2人の日本人がデビューした。日本のラグビーの夜明けだ。
どんどん続いてもらいたい。サッカーだって10年前はヨーロッパでプレーする選手は少なかった。きっとできるはずだ。

「量より質」。運動も会社も、そして、治療も同じだ。

でも、今この瞬間にも、日本中の中学や高校のグランドで理不尽に長い練習が繰り返されているのだろう。
軍国主義の名残。勝利至上主義。

少しづつ変わって行くといいなぁ。

2013年4月18日木曜日

コラム:たった1度の人生

今日、朝の情報番組に安倍総理がでていた。なんとなく見ていたのだが、安倍総理が言った言葉が耳に残ったので書いてみたい。

いろいろな政策について話しをしていたが、最後の最後に「私は1回総理大臣を失敗して辞めていますが、また復活して2回目の総理大臣をしています。日本の皆様も失敗しても、もう一度チャンスがある社会にしていきたい」というような話を少し自虐的にしていた。

この文だけ見ると、みなさんはピンとこないかもしれないが、私が留学して一番強く感じた「日本とオーストラリア」の違いがこの点だ。

私は、大学生、大学院生だったので、あくまでも学生の視点ではあるが、オーストラリアの人は、基本的には無理をしない。

例えば、大学のコースが難しいと感じれば、あっさり辞めて違うコースに行く。 大学のコースに疲れたら、一年休学して旅行やバイトをする。大学を卒業してもすぐにはフルタイムで働かない。などなど。そこに後ろめたい感覚はない。逆に、ある程度年齢が行ってから大学や院に入りなおしたり、一流会社の重役を務めながら博士課程をやっている人などもいる。やりたい時にやりたいことができる社会だ。

オーストラリアでも一部の競争の激しい人たちは毎日忙しくしているのだろうが、大体の人は社会人になってもこの様なスタンスなのではないだろうか。事実、卒業したクラスメートのフェイスブックなどをみても南米にいたり、東南アジアにいたり、ヨーロッパにいたりと様々だ。みんなバックパックを背負って世界中を飛び回る。何人か日本に遊びに来た人もいる。どこか生活に余裕があり、楽しみがある。

日本でこの様なことが可能だろうか?私はオーストラリアにいた時、この事を常々考えていた。
日本に帰ってきて忘れていたが、今朝の安倍さんの話を聞いて思い出すと同時に、総理が言ったことが現実になれば良いなと強く思った。

日本では浪人、留年、休学、退学、転入などは、イマイチ良いイメージがないように思う。
それに一回決まった路線から外れると、今の日本では簡単には戻ることができないのではないだろうか?
就職活動をしないで、国内や海外を飛び回ることなんてできるのだろうか?
疲れたら休学したり、仕事を辞めたりできるのだろうか?
日本にいるニートと呼ばれる人でも才能あふれている人はいるのではないだろうか?
履歴書の学歴、職歴に空欄は許されるのだろうか?

それらに対する、私が行きついた答えは「人口」だ。
オーストラリアの人口は、2000万人。日本は1億2000万人。約6倍。

良く理想のモデルに取り上げられるスウェーデンの人口は920万人。約12倍。

人口に対するマーケットの大きさや税金、GDPなどいろいろな要素はあるだろうが、アジア圏はとてつもなく人口が多い。インド、中国、日本。いなくなっても次から次に変わりの人が出てくる。

おまけに、高度成長期の過度な競争のおかげで低賃金、長時間労働で働くというのが伝統として残っている。そして、質より量と言う感覚も随所に見られる。隣の店よりも1分でも長く、休みを少なく営業する。こんな競争の繰り返しだ。

そんななかで、休んだり、辞めたりを繰り返すと必然的に社会からはじきだされる。したがって、日本では、ある年齢(下手すると幼稚園くらいから)になるといつのまにかその競争社会に飲み込まれ、なかなか人生に余裕を感じることなく時間がすぎて行ってしまう。会社という枠組みがなくなって気が付いた時には、何も残っていないということもあるだろう。でも、まだ、そこまで行きつけば良いが、それまでに肉体的にも、精神的にも疲労してしまうこともあるだろう。

特に、10代後半から20代前半というもっとも多感で吸収力抜群な時期をとても狭い世界で過ごしてしまうのはもったいないように思う。本来ならこの時期は勉強もそうなのだろうが、いろいろなものを見たり、聞いたり、実際にやってみたりして感性を豊かにするべき時期なのではないだろうか。そして、そこで豊かになった感性が後の社会を豊かなものにするのだろう。

同じものを見るにしてもとらえ方が年齢によって違う。したがって、そのことが人生に与える影響も違ってくる。
例えば、見たこともないような綺麗な海を10代でみるのを30代でみるのでは全然違う。私も14歳でアメリカの何とも言えない大きさを経験していなければ30歳にして海外に行くことはなかったように思う。

日本もこれから人口が減り、社会の規模が小さくなっていくことが予想される。もうすでに始まっているのだろうが一流大学をでたって就職が無い時代がくるだろう。中国や韓国はすでにそうなっている。そして、その人たちはどんどん海外に飛び出している。必然的に飛び出さなくてはいけないのかもしれない。我々も、今とは違った価値観が求められる。そのような時代が来た時には、新しい柔軟な感覚をもった若い人達が活躍する番だ。そうすれば、多少の失敗だってあるでしょう。

でも、その時は、「何回転んだって、休んだってやり直しがきく社会、時代」になっていてくれると良いなと思う。





2013年4月15日月曜日

第38回:技術を学ぶということ

私がオステオパシーに魅力を感じたのはなぜなのだろう?

それは、漠然と患者さんを手で治すことができそうと感じたから。

アンドリュー、ワイルやロバート、フルフォードの本を読んでいくなかで、その思いはより強くなった。
特に、フルフォードの「いのちの輝き」 には、とても魅了された。天気により患者さんの状態が変化することをみつけ、本人も自然の力を感じて生きている。

オステオパシーというのは医療哲学であり、その形式にはっきりと決まった形はない。決まった形にすることを創始者であるスティルも望んではいない。原則を理解して、自分なりの治療を見出す事を期待していた。

故に、自分がオステオパシーの原則をどのように理解し、どのように表現していくかということを探究していくことがオステオパシーなのだ。

手技は別として、生きているうちに答えがでるのかはわからない。

以前、お寺で修行している雲水さんと話した時に、悟りとは?という質問に対し、「空っぽの胃に、米粒を1つ、1つ食べて行き、いつかお腹いっぱいになるようなもの」と説明してくれた。そして、「もしかしたら、死ぬまでにお腹いっぱいにならないかもしれない」とも言っていた。

最近は少しその意味がわかる。治療を通して、自分をみつめ、人間そのものをみつめる。

いろんなところで、「瞬時に効く」「一発で治す」「このツボを押せば効く」などの広告を見る。そのように人生の早い段階で、何かに出会うことができるということは治療家としてラッキーのようではあるが、身体を治すという感覚においては何とも言えない違和感を覚える。

身体というものは、良くなるのだろうか?
そもそも、本当に悪いのだろうか?
痛みの強さと症状のひどさは100%関連性をもっている?
同じことをしていても痛みを感じる人と、感じない人の違いはなんなのだろう?
同じ動作で痛くなるときと、ならない時の違いはなに?
治療をしないと身体は良くならないの?

このようなことをいろいろ考えていると、フルフォードの治療家としての生き方には魅力を感じる。
きっと鍼灸の世界にはもっとたくさんの偉人がいたのだろう。 いまのいるのかな?
 
今日、会社の代表が、ある院の壊れたキーボードを見て「まず、こういうのを直さないと、身体を治せる気がしない」と言った。そういう感覚って大切だなって思う。

治療っていうのは、手技だけではない。でも、いろいろなことを含めて手技となるのだろう。その価値を大きくするのも、小さくするもの自分次第だ。患者さんの前で行っていること全てが技術で、そのなかで手で行っているものが手技。

技術=自分。

まだまだ、できることはたくさんありそうだ。



2013年4月14日日曜日

第37回: Diagnosis (診断)とPrognosis(予後)

オステオパシーの特徴には診断と予後がある。ほかのところは、分からないが 私が通っていたビクトリア大学は筋骨格系の治療に力を入れていたので必然的に診断と予後にも正確性が求められた。

私が、オーストラリアに行って一番良かったと思えることは、この診断と予後の導き方を理論的に教えてもらったことだ。どんな手技よりも良かったと思っている。そして、私が一番苦手だったのも、この診断と予後だ。というのも、日本にいる時は、そのような発想で治療していたことがなかったからだ。なんとなく患者さんの症状には対応するが、どの組織に問題があり、どのような過程を経てどのくらいで治って行くかなど考えたことはない。いつの間にか、長く通っている患者さんを良い患者さんと考えたりもしていた。結局は、集客はできても、治してはいなかったのだと思う。

これは、あくまで私の勝手な考えだが、日本で良い治療と言えば「一発で治す治療(直後効果が強い治療?)」と考えられているように思う。 したがって、何をどのように治療しているのかが見えずらいし、当然、患者さんも分かりずらい。でも、日本の人(患者さんも術者も)は、そのミステリアスな部分を比較的好むように思う。同じような疑問を持って私のところにくる外国人の患者さんには、「文化的な相違では?」と説明する。でも、治療に100%正確な答えがない事を考えるとどちらでも良いように思う。実際、一発で治すというのは、心の問題(プラシーボ)を解決している側面が強いように思う。

話を本題に戻すと、オステオパシーでは、「良い治療計画は、良い診断より導かれる!」と考えられている。これは、世界共通なのではないかと思う。
問診が終わった時点で、最低でも3つくらい鑑別診断がでていることが、理想的だ。もし、鑑別診断が出てこなければ、問診が不十分ということになる。何が問題で症状になってきているのかが、分からない間は治療をしてはいけない。これは、患者さんのためでもあるし、自分自身のためでもある。

ここに至るためには鑑別診断を行うための知識、そして、それを見分ける問診力が必要になる。

そして、実際に患者さんを検査して診断まで落とし込む。これは、ただ単に悪いところを選ぶのではなく、同時に、原因、関連性、その他の複合的な要素を含んで考える。したがって、診断名は、A4で3~5行くらい長いものになる。

大学の付属クリニックでも、先生と治療法のことで話すことはほとんどないが、この診断名に関しては、毎日長いこと話し合う。結局、診断するまでの筋道がしっかりしていないと、きちんと説明することができない。そこを突っ込まれると、必死に考えながら説明することを求められるし、先生が言っていることが、違うと感じた場合には、どうして違うのかを理論的に説明することを求められる。筋道が通っていれば、先生もこちらの意見を尊重してくれる。オーストラリアの人は、議論好きなので嬉しそうに話していたが、私には、この時間がとても辛かった。

診断がでて、患者さんにある程度の効果がみられれば、あとは、どのくらいで治って行くかだ。それが予後になる。患者さんも自分がどのように治っていくのかをはじめの段階である程度分かる。

前にも書いたが、骨折では、治癒期間があるからと言って一発で治そうとしないのに、筋肉やその他の軟部組織の時だけ、勇猛果敢に挑んでいくのは面白い。もし一発で治るなら、誰がやっても一発で治る。 それが「オステオパシー」だ。そこにトリックは必要ない。

先日も、他の先生から「このような患者さんがいて、全然治らないのだけど、どうすればいい?」という連絡を頂いた。この様な質問は、とても重要だ。具体的にはあまり書くことができないが、これは、まず診断までの筋道ができていなかった。したがって、何を治療しているのか。そして、それはどのくらいで治るのかが明確でない。いつも一発でを期待するので、ある程度治療して効果が見えないと不安になる。

こう言う時ほど、はじめに戻って、話を聞き。原因、部位、体質、体調などなどいろいろ含めて総合的に判断しなおすべきだ。あるいは、自分で治せるのかも考えなくてはならない。

いろいろな問題を抱えている患者さんが多いので、いつも、いつも綺麗に診断まで落とし込めるわけではない。 そういうときは、筋道を2つ、3つ作ればよい。そして、患者さんが来院して、治療から自立するまでにどのくらい掛かるか、特に、筋骨格系の治療であればイメージできたほうが良い。私は、筋骨格系以外の治療の場合は、治療から自立する時期は、患者さんに決めて貰うようにしている。あくまでも、自立は促すが。

柔整の保険制度の変更があり、3か月以上の治療に影響がでてくるようだ。しかし、一般的な筋骨格系の問題は、だいたい3か月以内には解決する。それ以上掛かる場合は、その他の要素も考えなければならない。そういった意味では、制度と内容があってきているのかもしれない。むやみに身体をさわる行為は、逆に患者さんを増やすことになる。治しているのか、増やしているのかがわからない。これは、薬などもそうかもしれない。依存を生んではいけないのだ。

診断と予後をやることによって、患者さんの医療からの自立を助けたい。無病息災ではなく、有病息災でも良いのだ。痛みや不調に負けることなく、人生を楽しく過ごして頂きたい。




2013年2月18日月曜日

第36回:低血糖

本日は、前回の脱水につづき、身体のさまざまな症状を起こしている原因である低血糖について書いてみます。

低血糖症。血糖値が高血糖と低血糖の間を乱高下してしまうことです。

日本の食事は糖質過多になりやすい。朝は、ご飯やパン。昼は、うどんやそば、おにぎりやパスタ。夜にまた、ご飯。炭水化物を抜くと何を食べたら良いのか分からない人が多いのではないだろうか。それは、いろいろなおかずは取るとしても常に炭水化物がそのほとんどを占めているということである。それに間食で甘いおやつでも取ろうものならどうなるだろう。

私の患者さんでも、食事について尋ねると、朝はパンだけ。朝は取るけど、昼は取らない。おやつを食べるから夜は取らない。おまけに水は飲みたくない。ほとんどの患者さんの食が乱れている。

医食同源。身体に問題がある時は、まず自分の生活を見直してみることだ。生活を規則正しくするだけで体調は大きく改善する。

糖質の多いものを身体に取り入れると、血液中のブドウ糖濃度である血糖値が急激に上昇する。そうすると、その血糖値を下げるために大量にインスリンが分泌される。

身体には、体内の環境を一定に保とうとする働きがある。そのなかでも脳はブドウ糖を主なエネルギーとするので、この急激な血糖値の低下に対し、一種の防御反応としてアドレナリン、ノルアドレナリンやコルチゾールなどのホルモンを分泌する。これらのホルモンは腎臓の上にある副腎と呼ばれる臓器から分泌されるので、一日に何回も血糖値を乱降下させると、しまいにはこの副腎に疲労が起こってしまう。何度も繰り返されれば、インスリンを過剰に分泌しなくてはならないので膵臓自体も機能が低下する。


そして、低血糖はさまざまな症状を起こす。

身体的には、疲労感、めまい、偏頭痛、食後の極度な眠気、生あくび、動悸、むくみ、筋肉痛、日光がまぶしく感じる、口臭、アレルギー症状。

精神的には、不安感、怒りっぽくなる、情緒不安定、イライラ、気鬱、極度の緊張、集中力がない。

 低血糖の原因はこの他にも、 アルコール、煙草、カフェインの取りすぎ、過食、ストレス、ビタミンやミネラルの不足なんかも考えられる。

甘いもの大好き。アルコール大好き。たばこ大好き。コーヒー大好き。一日1食です。これで頭痛や肩こりと言われてもどうにもなりません。

人は、心に感じたことや身体の中で起こっていることになかなか気が付くことができません。そうしているうちに、その問題を筋、骨格に痛みとしてシフトします。痛みは感じることができるので、それを問題ととらえ治療して欲しくなります。しかし、それでは症状は一時的に消せても原因は治せません。

症状のその先に何かあるかもしれません。少し踏み込んでみてください。病院や治療院に何年も通うことが最高の人生ではないと思います。


2013年2月6日水曜日

第35回 Dehydration(脱水症状)

治療をしていて気づいたこと。いろいろなことをする前に、自分で低血糖と脱水を改善すれば消えてしまう症状が多いのではないかということ。実にもったいない。

オーストラリアで治療していたときはほとんど感じなかったことなのだが、日本で治療するそのほとんどの患者さんがこれらのどちらか、ひどい時は両方とももっているような気がする。もちろん本人は気が付いていない。

身体の排泄機能に問題がある人がとても多い。発汗。小便。大便。涙、そして、呼吸。排泄がうまく行われないということは、不必要な物質が体内に溜まっていくということになる。当然これは問題を引き起こす。

今日は、水分補給の啓蒙の意味を込めて脱水について書いてみようと思う。

脱水とは読んで字のごとく、身体から水分が少なくなってしまった状態を言う。摂取量<排出量の状態である。

原因としては、ひどい下痢、嘔吐、熱や多量発汗などがある。そして、水分の補給量が少ないときも当然ながら起こる。

症状は、唇や肌が乾燥したり、不眠、のどの渇き、尿量の低下、涙がでない。そして、頭痛、便秘、めまいや立ちくらみ、慢性疲労や決断力の欠如などもみられる。これらの症状以外にも、尿の色が濃い黄色やコハク色の時は1つの目安になる。

さらに、我々の筋骨格にも問題を引き起こす。例えば関節痛や関節腫脹。関節軟骨は多くの水分を含んでいる。脱水状態では、摩擦が大きくなる。筋肉痛ももちろん起こる。 それに起因する肩コリ、腰痛、下腿痛なども十分考えられる。

脱水による痛みや筋緊張。治療でさらに水分を消費する。身体が治そうとするのにさらに水分を必要としてさらに脱水。負のサイクル。治療してるんだか、悪くしているんだか。

私は患者さんによく水分を補給するように伝える。治療中も水分補給を推奨している。もちろん自分も水分を補給する。

しかし、患者さんのなかには水だと飲めないと言う人がいる。お茶やコーヒー、ジュースだったら飲めるけど、、、。これは脳がだまされている。脱水の症状があるにも関わらず、カフェインや糖質の刺激のほうを好んでいる。 脳は快楽を求めるが、腸はそうではない。カフェインを飲んで興奮しさらに水分を消費。ジュースの飲んで低血糖を起こす。

あとは、水が身体に入っていかないと言う人も多い。これは排泄、代謝がうまくいっていないことを現わしている。汗が出ない、小便が少ない。腎臓、肝臓、心臓、リンパ系、血管系。うまく排泄できないから入れることができない。こう言う人は本当に多い。この状態で発汗を促すと呼吸が苦しくなってします。したがって、サウナや温泉などが苦手になる。

私が患者さんを治療するときは、排泄機能を高めることから始めることが多い。そして、水分を補給し、汗をかくように促す。人間が生活するなかで当たり前の感覚、機能が失われている。これでは身体は治らない。

エンジンオイルがない車を運転するとエンジンは焼けついてしまう。人間の腎臓は少ない水分量に適応してくれる。これは凄いが限界はある。慢性的な脱水が起こっているので、夏になるとバタバタ倒れてしまう。これは本当に危険だ。

急に水分量を増やすと3週間はトイレが近くなる。この3週間は腎臓が機能を回復してくれている期間だ。どうか我慢してトイレにいって頂きたい。

過剰な暖房が新たな乾燥、脱水を生む。水分補給で多少の冷えは解消するはずだ。

簡単なことだけど、重要なこと。自分が脱水かもと思ったかた、まずは3週間、水分補給を頑張ってみてください。きっと身体が喜んでくれるはずです。




2013年1月29日火曜日

第34回:対症vs根治


Facebookのオステオパシーに関するフィードで上の写真を使った記事をみつけた。
直訳すると「時間をかけて身体を治しているか、ただ症状を隠しているのか?」という問いかけだ。

対症療法に対する根治療法。みなさんは不調を感じた時どちらを選んでいるだろうか?
風邪をひいた時。
血圧が高い状態の時。
肩こりがひどい時。
腰痛になった時。
頭痛に悩まされている時。
心が沈んでいる時。

治癒とはなんなのだろう?
Wikipediaでは、次のように定義されていた。
「治癒(ちゆ)とは、体に負った傷、あるいは病気などが完全に治ることを指す。」

さらに、
「しかし、「治る」ということを「健康体に戻る(健康体 = 非病気の状態になる)こと」あるいは「元の状態に戻ること」のように解釈した場合、大きな怪我であれば傷痕が残るなどの後遺症があるため、たとえ治療が終了したとしても、それを治癒と呼べるかどうか微妙な問題をはらむ。さらに、遺伝的(体質的)な問題がからむ病気やいわゆる不治の病である場合、治癒というのは存在しないことになる。」らしい。

私にとっての治癒とは、医療からの自立だ。病院に行かなくて良い状態。薬がいらない状態。治療を必要としない状態。
治療をしていくと同時に自立を促す。はじめは、多くの患者さんが自立していくことに不安を感じる。今まで他人任せの医療の中にいたからだ。
治療が進むにつれて、患者さんは自ら水分摂取量を改善し、食事を改善し、悪い習慣を変え、考え方を改善していく。これは提供されたり、自分で調べたりして得られた情報により自発的に行われなくてはならない。したがって、治療期間はこれらに左右される。

自らの身体に、自分で責任を持つ。
なぜ、なかなか症状は改善しないのだろう?
なぜ良い時もあるのに、不調を感じる時があるのだろう?
なぜ、同じことをしても大丈夫な人と、不調を感じる人がいるのだろう?
そもそも不調とは?では、無病という状態は存在するのだろうか?

「何があっても医療にかからない」のように極端な思想はもちろん良くない。何事も極端は良くない。余計に身体をおかしくする。

でも、日ごろから不調にならないような努力、そして、不調を感じた時に自ら治そうとする努力が必要なのではないかと思う。一日でも早く医療から自立する努力。

はじめはとても難しいのかもしれないし、ひとりでは難しいという人もいるでしょう。しかし、ある程度のきっかけや情報があれば多くの方が意識することができる。そういう情報やきっかけを提供し、努力の手助けをするのがオステオパシーであれば良いなと思う。



2013年1月23日水曜日

第33回:最善の医療

先日部屋の掃除をしていて、たまたま掴んだ本にとても興味深いことが書いてあった。
その本とは、大分前に読んだ文芸春秋なのだが、その中のあるコラムがとても気に入りとってあったのだ。すっかりそのことすら忘れていたのだが、掃除をきっかけにまた読むことができた。
やはり掃除はするべきだ。

「医療は格段に進歩した。だが、単純に信じてはいけない。自分にふさわしい最善の医療を患者1人ひとりが選ぶ時代になったのだ。」という書き出しから始まっている。

「いい医療とは何か? という問いには、結局のところ、人間が生きる目的はどこにあるのか、という問題に帰着すると思います。人間は生まれた時から、死に向かってまっしぐらに駆けています。~中略~元気で長生きできるかは人がもって生まれた身体や運に大きく左右されます。だから、常にどう生きるか、どう死ぬかを考えておくことです。」

このコラムはある医師と作家の対談を基に書かれている。
その中の医師の言葉。
一読すると無責任のように感じる人もいるかもしれない。しかし、私はこれはある意味では真意をついていると思う。

身長、体重、肌の色、髪の毛の量、体質などなど。どのように考えても全ての身体自体が平等に作られてはいない。
同じ心臓にも誤差はある。肝臓も、腎臓も、そして、脳も。
そんななかで地球上すべての人が120歳まで生きるなんてことはあり得ない。

しかし、われわれにはどのように生きるかを選択することはできる。逆にいうとそれしかできない。
健康に生きるか、それともそこには執着しないでいくのか?
結果はどうなるかはわからない。でも、どのように生きたかの違いは生まれる。

健康に生きる。

では、どのように健康に生きるのか?

まず、正しい情報を集めることだ。今はインターネットで検索するだけでも多くの情報を手に入れることができる。
自分の病気の原因はなにか?
医食同源。できているか?
運動。自分にあっているか?
身体に害になることってなにか?

個人、個人でこの様なことをしっかり行っていけば、実は医療などは緊急時や死に関係する時以外は必要なくなる。でも、極端すぎるのも良くない。
どこか悪くない人なんていない。一病息災。それでいいんだ。そして、その一病を見つめていくと、自分に必要なことが見えてくる。それが健康だ。

治療する側は、自分のため、患者さんのために正しい情報を集める。そして、 患者さんは、全て治療する側に任せるのではなく、少しづつ健康に興味をもち、正しいことを選んで行く生き方をしてくことが必然的に大きく膨らんだ医療費を縮小させ、本当に必要な事に使っていけるのではないかと思う。

2013年1月11日金曜日

コラム:ものの教え方&運動の仕方3

先日、高校生が部活の顧問から体罰を受けたことにより自らの命を絶ったというニュースを聞いた。

体罰と自殺が100%の関係かどうかはわからないが、きっかけになったことは間違いないだろう。

以前にも書いたが、「人は自分が教えられたようにしか教えることができない」と言われている。
自分で気が付き変えようとしない限り、そのようになる傾向にあるようだ。

きっとこの顧問の先生もこの様な環境で生きてきたのだろう。それは、部活でだったのか、親からだったのかは分からないけど。

日本はこの部分は戦前と何も変わっていない。変わっていないと言うことは、多くの人々がそこまで問題に思ってきていなかったからとも言えるだろう。

実際、今回もこの顧問を擁護する意見もあるようだ。それが当たり前だと思っている人にとっては何も問題ではないのだからそういう意見があってもおかしくない。そして、そのような人が教育する立場になって同じことを繰り返す。このサイクルは永遠に続く。

体罰。恐怖を植え付けることでうまくなる。叩かれたくないからきちんとやる。一番簡単な管理方法。

実は、こう言うことは日常にあふれている。家庭でも、学校でも、会社でも。
権力を手にすると、体罰までしないにしても、威圧的に接したり、発言したり、恐怖で管理しようとする人はいくらでもいる。体罰をする人ももちろんいるだろう。

オーストラリアであった本当の話し。
オーストラリアに来て間もない日本人のお母さんが、子供を連れて公園に行って遊んでいた。公園で遊んでいるうちに子供があまりに言うことを聞かないので、日本にいた時のように子供のお尻を叩いた。しばらく遊んで家に帰ると家に警察が来て事情を聞かれた。

まさか、まさかの本当の話しである。
公園で体罰したのを見ていたオーストラリア人のお母さんが彼女が乗ってきた車の番号を控えて警察に彼女が体罰をしていたと通報していたのだ。

ところ変われば「体罰」とはこういう扱いである。

子供は完全体で生まれてくる。その完全体は、その後の教育によって少しづつ不完全になっていく。恐怖を植え付けられ、ほっとかれ、否定され、無視され、どんどん不完全になっていく。そして、成人になりそれらの経験が病を生む。うつになったり、慢性の病を抱えたり、自己免疫疾患になったり。自分になかなか治らない病がある人は、一度自分の幼少期を振り返ってみると良い。

まずは、立場に関係なく意見を言い合えるようにしなくてはならないと思う。親と子。先生と生徒。先輩と後輩。上司と部下。どれもくだらない枠組みだ。枠組みの前に人と人である。

野茂選手がアメリカに渡った時に、「ここは誰にでも平等だ」という感想を述べた。これは野球に対してのことだったのかもしれないが、私は違う側面もあると思う。人は立場ではないんだ。それでも、人に対する尊敬は自然に生まれてくる。

今、多くの日本の子供たちが英語を習っている。いまの成人でも英語を話せる人はいくらでもいる。中学英語でも十分会話は成り立つ。でも、なんで日本人は英語が苦手と言われるか。日本人は小さなころから意見を言う機会を奪いつづけられて成長するからだ。 英語が話せないのではなく、人前で意見を言うことができないだけなのだ。親に意見を言えない。先生に意見を言えない。上司に意見を言えない。子供に英語などを教える前に、誰にでも遠慮なく自分の意見を言える環境を作ってあげなくてはいけないと思う。

体罰、恐怖、威圧などは何も生み出さない。子供の羽を奪い取っているだけだ。
今回の件で再認識することができた。





2013年1月8日火曜日

第32回:雪解けを待つ。

今診ている患者様に71歳の男の方がいる。主訴は、右ひざ痛。昔、けがをしたのが影響していると言っていた。

いろんな治療を経験して、私のところに来てくれた。

初診時に感じたこと。膝にはほとんど問題がないということだ。多少の変形はありながらも他動的には全可動域問題なく動く。左右差もほとんどない。

それよりも気になったことは、身体の過緊張状態。頚部、背部、腰部の柔軟性が著しく低下している。頚部の緊張も著名なことから、既往歴、現病歴などにも注意をそそぐ。特に問題はないようだ。脳神経にも問題はみられない。

本人は、年齢的なものだと思っている。でも、それは違う。100人の71歳の人が皆同じように過緊張状態にあるのなら年齢的なものと言えるかもしれないがそうではない。

私は、身体を一つの袋のようなものと考えている。水が入っている袋を触っているような感覚で治療をする。頭から足までをそのように触っていく。健康であれば頭を触っても足に動きがみられる。腰を動かすと頭も下肢も連動して動く。連動して動けるかがとても重要になる。

今回はこの連動がほとんど見られない。これでは、膝を最大限に使うことができない。

治療は、硬膜や筋膜の緊張をとることに集中する。今まで何回か治療しているが、まだ膝は触っていない。この緊張が取れれば、袋の連動が生まれ膝は自然に回復をみせると考えている。そうなって残った痛みを治療すればよい。それまでは膝を触っても「治す」のは難しい。

70年かけて生じた緊張は半端ではない。それは、アルプス山脈にある氷河が解けるのを待っているかのように感じる。それは永遠に解けないのではないかと少し心配にもなる。
しかし、毎回しっかりと動きを感じる。そして、それは始めのころより確実に強くなってきている。
もう少しだ。もう少し待ってみよう。と自問自答。

先ほど、その方の今年初めての治療をした。この緊張はアルプス山脈にある氷河ではなく、富士山の山頂に積っている雪だったようだ。少し解けはじめていた。連動も生まれている。呼吸のパターンにも明らかに変化がでている。待って良かった。

患者様にそのことを伝えても「半信半疑」という顔をしている。それはそうだ。富士山の雪が少し解けたのを気がつく人はいない。しかし、もう少しだ。あと少しでその変化は自覚になる。

身体は確実に治す方向に向かい始めた。どの患者さんも必ず身体が治る方向に向き始める瞬間がある。こうなれば治療は終わったも同然だ。あとは、その力を助けていけばよい。

このままいけば春前には、緊張はなくなりそうだ。そうなったら膝は動き始める。それまでに下肢の筋トレをしっかりやっておいてもらおう。



2013年1月1日火曜日

第31回:Total body healing: Body, Mind and Spirit

Atsumi Total Careのコンセプトでもあるトータルケア。ここで言うトータルにはいろいろな意味が含まれています。
今日は、そのトータルのなかでも根幹の部分、そして、院のロゴでも表現している「Body, Mind and Spirit」について書いてみます。


Body
オステオパスは、自然治癒力を最大限に引き出すためにいろいろな種類の手技を用います。どの手技も肉体を通して使われるので、必然的にベースとなる身体が良い状態にある方が反応も良くなります。

Mind
オステオパシーでは、身体の全てのパーツが共に機能してはじめて、治癒力を生みだすと考えているので、脳も、そして、心もその全体のシステムの中に含んで考えます。したがって、オステオパシーでは、肉体にある問題は、心の問題も増長すると考えています。同じように、心の問題は、身体の問題を引き起こし得るのです。身体に何か起こっている時に、心に何か起こらないことはありません。

Spirit
前々回に書きましたが、今のところ、オステオパシーの中に明確にスピリチュアルと言っているコンポーネントはありません。しかし、最近では、東洋医学で言うところの「気」のように、身体の「エネルギー」を治癒を促進する力としてとらえているオステオパスが増えてきています。

私は、この3つを次のように考えています。MindはBodyの中に存在し、SpiritはBodyの外側に存在している。そして、この3つは常に影響しあい身体のバランスを保っている。

この3つが影響し合っていることは、この様なことからわかります。
  • 身体が治りたがっていていも、気持ちが治りたがっていないので治らない。
  • 身体が治るのに必要なエネルギーが不足していて治らない。
  • 心の問題を無視し続けた結果、筋骨格の問題として現れる。(逆もあります)
このように考えていくと、ぎっくり腰もうつ病も原因はそう大きく変わらないと言うことが分かると思います。いろいろな原因がありその結果が、心に出ればうつ病になり、骨格にでればぎっくり腰やヘルニアになる。 うつ病は、慢性の腰痛を生じさせ、慢性の腰痛は、うつ病を起こす。

逆に、これらの事柄に関係性がないとなると、ぎっくり腰が一回の治療で良くなるなんていうことを証明できなくなってしまいます。腰であれば椎間関節の捻挫でも通常の治癒過程では、痛みが取れるのに4-5日、機能が回復するまでにさらに1週間と考えられています。筋肉や靭帯の損傷であれば治癒過程はさらに長くなります。これがたった数分で治ってしまう。これは非科学的なことなのですが、臨床ではたびたび遭遇することがあると思います。どうしてこのような事が起こるのでしょう?

これは腰を治したのではなく、他の部分を治したと考えた方が良いではないでしょうか。患者さんは腰が痛いと言っているし、腰に熱感があるので腰の問題と考えてはみて、治療した。しかし、本当に腰は悪かったのでしょうか?ということになってきます。

骨折では、それぞれの骨に治癒期間があり、それを早くしたりする人はいません。大腿骨の骨折を一回で治す人はいませんし、小さな中手骨でさえ一回で治す人はいないのです。では、なぜ骨は一回で治せないのに、他の筋骨格の問題は治せるのでしょうか?

身体は治る状態にある時にだけ治るんです。それは、Body,Mind, and Spiritのバランスが良い時なのです。