2015年3月12日木曜日

第60回: 最初の3日間

当時の私はというと、海外生活には慣れ、日常生活はなんとかこなせるようになっていた。
英語も語学学校での成績は良かったし、大学も入学できたのでなんとかなりそうと変な自信があったように思う。

しかし、蓋をあけてみると、、、。びっくり?!いやいや、ショック。

オーストラリアでは、入学式とか終業式みたいなものがない。したがって、初日からいきなり授業が始まる。

その初日というのも、この日に始まるくらいしか情報がない。
何時に、どこに行けばいいのかもわからない。不安。不安。不安。

心配性の私は、前日に学校に行き確認。なんとか時間と場所はわかった。

当日、その場所に行ってみると外国人だらけ。っていうか、私が外国人?!
どこに座る?!とか考えてる間もなく、授業開始。

忘れもしない、いきなりの解剖3時間。9時から12時まで。
いままで感じたことのないアウェー感。
システムを良く理解していないから、休み時間があるのかも、いつまで続くのかもわかっていない。
これ本当に3時間続くの?!はい。続きました。

全くわかりません。たまに、わかる単語が聞こえる程度。
拷問。早く帰りたい。

それと対比したような、クラスメートの楽しそうな感じ。

よく考えてみると、それまでは英語が第一言語でない人との付き合いが多かった。
お互いの英語のレベルが近かったのだ。
どうりで、良く分かったわけだ。

同じ英語とは思えない。

結局この日は、昼に1時間だけ休みがあり5時まで授業。
拷問を通り過ぎて諦めの境地。チーン。午後のことは何も覚えていません。
さぞかし辛かったことでしょう。

家に帰って、今日の復習と次の日の予習。
分厚い解剖や生理学の教科書を読む。わからない単語だらけ。
1ページ読むのに、数十分。今日は何時に寝れるのかしら。
深夜を過ぎたあたりになると、猛烈な睡魔との戦い。眠い。
一日緊張していたのだから眠いに決まっている。

これを5年間も続けられるの?自問自答。
無理。絶対無理。
どうせ辞めるなら一日も早い方がいい。お金も無駄にならないはず。
そうだ、そうに決まってる。
よし!どうせ辞めるなら、もう寝よう。

あっという間に2日目の朝。
気分は最悪。授業はもっと最悪。
今日は、グループワーク。昨日の解剖の内容が問題形式になっていて、それをみんなで答えていく。
当然、発言の機会がある。何言っているか変わらないのに、答えなくてはならない。
一人づつ、簡単に答えて行く。答えが当たっているかではなく、英語で簡単に答えている。
自分の順番が近づいてくる。
まるで、処刑される順番をまっているみたい。心臓バクバク。背中に汗。
案の定、みんなが「?」。自分も「?」。先生も「?」。
もう無理。

教室に一人だけ宇宙人が紛れ込んでしまった感じ。

時間よ早く過ぎてくれ。

これが夢にまで見たキャンパスライフなのか。
嘘だろ。嘘だと言って。

確かに、金髪のきれいな子はたくさんいる。
メルボルンのど真ん中にあるキャンパス。最高のロケーション。
ここまでは思い描いた通り。

一つ違うのは、私が宇宙人だと言うこと。外国人を越えてしまっている。

言葉がわからない。
教室がわからない。
クラスノートをどこから手に入れるのかが分からない。
誰とペアを組めばいいのかわからない。

後に、分かったのだが、みんなはコースが始まる1週間前にオリンテーションを兼ねて1泊2日の合宿に参加していたようだ。道理で仲がいいはず。まぁ、それすら知らないんだからどうしようもない。

気を使って話しかけられるのさえも苦痛。

人生いろいろ経験してきたと思ったが、30歳になってもこんなに辛いことってあるんだ。

そんなこんなで3日目の夜。
「ダメだ。日本に帰ろう。」と言うことになる。
本気で言ったのではなく、言ったらどうなるだろう?って感じだったと思う。
いきなりいうより、前触れはあった方がいいはず。
本気だったのかなぁ。

「3か月。3か月頑張ってみれば?」
 「そうだね。」
 これ以上、会話はなかったように思う。
 嫁としても、オーストラリアまで勝手に連れてこられて、いきなり「帰る」と言われて困ったことだっただろう。

でも、この「3か月」は実に的確なアドバイスだったように思う。
結果的には、この3か月の間に「なんとなく大丈夫なのでは?」と淡い期待を持てるくらいにはなっていた。

宇宙人なのに変わりはなかったけど。

石の上にも3年というけど、とりあえず3か月頑張ってみると良いのかもしれない。
辛いことがある人には、3日ではなく、3か月頑張ってみることをお勧めしたい。
きっと道が開けてくるはずです!


2015年3月11日水曜日

第59回:大学に入るまで。

前回、留学動機に書いたように、留学した時にはオステオパシーが何なのかはよく分かっていなかった。

アンドリュー・ワイルやDrフルフォードの本を読んだ程度。
勉強会にも2,3回参加したか、しないか。

でも、オステオパシーには何かあるのではないかと感じた。
本場のオステオパシーを見てみたい。そう思ったのを覚えている。

なぜ、このように思ったのだろう?
自分でもわからない。

留学当初、シドニーの西部になるウエスタンシドニー大学のコースに入ろうと思っていた。
それを目標に英語を頑張る日々。
しかし、直前になりその大学のオステオパシーのコースが閉鎖になることを知る。今年の学生の募集はしません。

チーン!目の前が真っ白。

当時、何も成し遂げずには帰れないという思いが強かったので、気は進まないもののシドニーにあるナチュロパスになるための専門学校に出願し、入学許可も貰っていた。

「これがやりたいことだったのか?」
悶々とした日々。

それを現地の邦人エージェントに相談しに行くと、「渥美さんの経歴や成績だったら大学に出願したほうがいいですよ」というアドバイスを頂く。

「?・?・?」「本当ですか?」 拾う神あり!
本当に神様に見えた。
ここからの帰り道は、すでに受かったかのようにウキウキしていた。

そこでメルボルンのビクトリア大学とRMITに出願。

なかなか返事が来ない。あと少しでビザが切れそう。
不法滞在になっちゃう。などなどいろいろ考える。

ビクトリア大学から返事が届く。語学力のテストをさせて欲しいとの返事。
この半年は、英語のテストを受けまくりだったので、なんとかなるかもと思った。
というか、やるしかない。

テスト終了。できることはやった。

それから1週間くらいして返事が。
すぐにメルボルンに来るように。
「受かった?!」「受かった!」

それからメルボルンに行くまでに2~3週間しかなかったと思う。
ビザの延長を申請。
引っ越し準備。

この引っ越し準備が本当に大変だった。
ふつうは、留学となると一人でくるので、シェアと言って、簡単な手続きでアパートなどの一部屋を借りて生活する。なので、退去も簡単。

しかし、私の場合は、家族を呼ぼうとしていたので、アパートの一室を借りていた。
前に、日本人が住んでいて、家具とかを買い取って、そのまま契約を引き継いでいた。
セントラルステーションのすぐ近く。日本で言うと、新宿駅のすぐそばみたいなところ。
便利でとても気に入っていた。
でも、現地の人には、治安が悪いから気をつけろと言われる。先に言ってよぉ。

今回も、そのまま家具を買ってくれて、契約を引き継いでくれる人を探さなくてはならない。
時間がない。でも、やるしかない。ネットで募集。

まずは、不動屋さんに行って、それは可能かを聞きにいく。当初、渋っていたが、家賃を上げるのが大丈夫なら良いと言われる。ハードルが上がってしまった。でも、やるしかない。

結局、メルボルンに移動する1週間まえに、日本人の女性2人に引き継ぐことができた。
募集は、結構あって、最後は、こっちの方が強気で交渉することができた。
この2人は全く英語が話せなかったので、契約まで付き添い、通訳も引き受ける。
二人にはとても感謝されたが、こっちとしては、時間がないから契約までなんとしても無事に終わらせる必要があった。

なんとかなるものである。

この留学エージェントの人との出会いがなかったら私の留学は違ったものになっていただろう。
本当に人の出会いは不思議だ。私はラッキーな人生を歩んでいる。

山口さん、本当にお世話になりました。また、シドニーにお礼をしにいきます。


こんな感じで留学1年目が終わり、シドニーからメルボルンに移り住むことに。
人生って本当に何が起こるか分からない。

「やるしかない」の精神は、留学している間、一番強く感じた言葉かもしれない。
いつでも「やるしかない」。
結局、人生は「やるしかない」の精神でチャレンジしていくことの繰り返しなのかもしれない。
「やるしかない」の状況がない人生はつまらないのかも。

そして、治療だけは、いつも「なんとかなる」わけではないので、少しでも精度を上げれるように頑張ろう。治療も人生と同じだ。

オステオパシーに出会って本当に良かった。

2015年3月6日金曜日

第58回:留学動機

29歳。結婚して1年3か月。長男が3か月の時にオーストラリアに留学。
しばらく家族と離れての生活。
この時点では、大学に入れるどうかもわからない。

決まっていたのは、英語学校に通うことだけ。
英語も最後に勉強したのは大学1年生19歳の時。
当然、全く話せないし、聞き取ることもできない。
買い物すらままならない状態。

今考えると、良く行ったなと思う。
これは、物凄い動機があったはず!?

22歳。明治鍼灸大学を卒業と同時に東京に戻り(株)アミに入社。
他にも、大学の先生に紹介頂いた鍼灸院を見学に行ったのだが、鍼を打てるようになるまでに3年は掛かると言われ、見学途中に仮病をつかって早々に帰宅。
アミも2年くらいで辞めてもいいかな?!くらいの軽い気持ちで入った。

こんな感じなので最初の1年は全くまじめに仕事せず。ほぼ問題児。
飲んで。飲んで。また、飲んで。仕事中に休憩。

24歳。自分の先任者の先生が辞めるということで、院長の座が空席になり、たまたまそこにいた自分がやることに。そんな重要なこととは思っていなかったし、なんとなくできるかもと思っていた。甘い!

当時、その院は患者数が少なく、次の院が見つかり次第閉めるから、それまで頑張って!みたいな感じで任される。
入社して1年半の自分とベテランの受付さん。そして、日替わりのヘルプの先生。これは諦めムード満開。

でも、予想に反して、患者さんは増え始める。「?・?・?」
なんで増えるの?あれ?という毎日。結果的には、その院は閉めずに済み、いまも多くの患者さんに支えられている。
私もベテラン受付けさんも根が負けず嫌いだったのかも。

振り返ってみると、この仕事の面白さに気付いたのはこの時期だったように思う。
自分を頼りに来院してくれていると思うと、一生懸命にならずにはいられなかった。

それ以降、ざまざまな機会に恵まれ、27歳の時には最大6院の管理を任されるようになる。

この仕事に入って5年。6院30名くらいを管理する。
毎日、どこかの院で何かしらの問題が起こる。朝8時半には15件くらいのメールが携帯に入る。

仕事のウエイトも治療よりも管理・運営に移行していく。

28歳。そのような毎日に刺激を感じつつも、治療をしている時だけ何も考えなくて良いということに気が付く。
精神的に未熟だったのもあるが、人の問題を解決するのに疲労していたのかもしれない。
誰が辞める。仲が悪い。休みを変えてくれ。異動はやだ。 同世代の自分には対処法がなかった。

そんななか、「鍼でなんでも治そう」と思っていた大学生の頃の気持ちを忘れていることに気が付く。
根拠のない自信。

来患数は増やすことができるが、治すことはできているのだろうか?という疑問に答えがでなくなる。
「明日も来てください。」「いつ来れますか?」「また、明日!」

この頃、アミに手技ができる先生が増えてきてカイロやオステオパシーという言葉を耳にするようになってくる。
この時点では、カイロもオステもなんだかよく分かっていなかった。
手技なんてなくても治せるくらいに思っていたかもしれない。

では、なぜ、オステオパシーを選んだのかと言われると答えるのは難しい。
ただ、なんとなくオステオパシーには何かあるのでは?と感じたように思う。
「なんでも治す」ということに再びチャレンジすることができるのではと思った。

人を管理することに疲弊している時に、新しくチャレンジできそうなものに出会う。
選択は簡単だった。

当然、現実逃避的な要素もあったのだろう。

海外で勉強。映画でみる楽しそうなキャンパスライフ。
夢だけはドンドン大きくなる。現実がつらい分、妄想は膨らむばかり!

実際の留学生活は本当に辛く、厳しかった。大きくなった妄想は一瞬にして消えて行った。

「大学に入学して3日で日本に帰ろうって言ったのは忘れない」と嫁に言われる。
普段そういうことを言わない分、本当に帰るのかな?と思ったらしい。
しかし、30歳での留学。簡単に帰るわけにはいかない。大学の3年、4年のときは「行くも地獄、帰るの地獄」のフレーズばかりが頭に浮かんだ。

あとは、小さい頃から海外に行きたいと漠然と思っていたのもある。中学2年の時にアメリカに行った時の衝撃はいまでの忘れられない。同じ世界なのかと思った。
アメリカにはすべてがあるように感じた。しかし、選んだのはオーストラリア!

実は、24歳の時にアメリカでカイロを勉強しないかという話しを頂いたことがある。その時は、アミでの仕事が楽しかったし、英語を勉強するのがいやだったので丁重にお断りした。
この時、行っていたらどうなっていたのだろう。

「期を見る!」人生はタイミングだ。
絶好のタイミングで最高のことにチャレンジするようにできている。

こうやって書いてみると、楽な方、楽な方を選択して生きている感じがする。
自分に甘く、楽したい。困ったもんだ。

まとめてみると、昔からの海外に対するあこがれと、仕事が辛かったからみたいになってしまう。
オステオパシーはどこ行った?

エスケープ。新婚旅行に行ったときに泊まった島が、エスカパード島と言って(逃避)という意味を持つ島だった。なんてピッタリの島だと感じた記憶がある。

動機はそんなでも、結果的には「なんでも治す」にチャレンジすることができるようになった。

アクションを起こせば、結果は生まれる。
アクションを起こせる勇気をいつでももっていたい。

と、こんな感じで、はじまった留学生活でした。