2013年4月18日木曜日

コラム:たった1度の人生

今日、朝の情報番組に安倍総理がでていた。なんとなく見ていたのだが、安倍総理が言った言葉が耳に残ったので書いてみたい。

いろいろな政策について話しをしていたが、最後の最後に「私は1回総理大臣を失敗して辞めていますが、また復活して2回目の総理大臣をしています。日本の皆様も失敗しても、もう一度チャンスがある社会にしていきたい」というような話を少し自虐的にしていた。

この文だけ見ると、みなさんはピンとこないかもしれないが、私が留学して一番強く感じた「日本とオーストラリア」の違いがこの点だ。

私は、大学生、大学院生だったので、あくまでも学生の視点ではあるが、オーストラリアの人は、基本的には無理をしない。

例えば、大学のコースが難しいと感じれば、あっさり辞めて違うコースに行く。 大学のコースに疲れたら、一年休学して旅行やバイトをする。大学を卒業してもすぐにはフルタイムで働かない。などなど。そこに後ろめたい感覚はない。逆に、ある程度年齢が行ってから大学や院に入りなおしたり、一流会社の重役を務めながら博士課程をやっている人などもいる。やりたい時にやりたいことができる社会だ。

オーストラリアでも一部の競争の激しい人たちは毎日忙しくしているのだろうが、大体の人は社会人になってもこの様なスタンスなのではないだろうか。事実、卒業したクラスメートのフェイスブックなどをみても南米にいたり、東南アジアにいたり、ヨーロッパにいたりと様々だ。みんなバックパックを背負って世界中を飛び回る。何人か日本に遊びに来た人もいる。どこか生活に余裕があり、楽しみがある。

日本でこの様なことが可能だろうか?私はオーストラリアにいた時、この事を常々考えていた。
日本に帰ってきて忘れていたが、今朝の安倍さんの話を聞いて思い出すと同時に、総理が言ったことが現実になれば良いなと強く思った。

日本では浪人、留年、休学、退学、転入などは、イマイチ良いイメージがないように思う。
それに一回決まった路線から外れると、今の日本では簡単には戻ることができないのではないだろうか?
就職活動をしないで、国内や海外を飛び回ることなんてできるのだろうか?
疲れたら休学したり、仕事を辞めたりできるのだろうか?
日本にいるニートと呼ばれる人でも才能あふれている人はいるのではないだろうか?
履歴書の学歴、職歴に空欄は許されるのだろうか?

それらに対する、私が行きついた答えは「人口」だ。
オーストラリアの人口は、2000万人。日本は1億2000万人。約6倍。

良く理想のモデルに取り上げられるスウェーデンの人口は920万人。約12倍。

人口に対するマーケットの大きさや税金、GDPなどいろいろな要素はあるだろうが、アジア圏はとてつもなく人口が多い。インド、中国、日本。いなくなっても次から次に変わりの人が出てくる。

おまけに、高度成長期の過度な競争のおかげで低賃金、長時間労働で働くというのが伝統として残っている。そして、質より量と言う感覚も随所に見られる。隣の店よりも1分でも長く、休みを少なく営業する。こんな競争の繰り返しだ。

そんななかで、休んだり、辞めたりを繰り返すと必然的に社会からはじきだされる。したがって、日本では、ある年齢(下手すると幼稚園くらいから)になるといつのまにかその競争社会に飲み込まれ、なかなか人生に余裕を感じることなく時間がすぎて行ってしまう。会社という枠組みがなくなって気が付いた時には、何も残っていないということもあるだろう。でも、まだ、そこまで行きつけば良いが、それまでに肉体的にも、精神的にも疲労してしまうこともあるだろう。

特に、10代後半から20代前半というもっとも多感で吸収力抜群な時期をとても狭い世界で過ごしてしまうのはもったいないように思う。本来ならこの時期は勉強もそうなのだろうが、いろいろなものを見たり、聞いたり、実際にやってみたりして感性を豊かにするべき時期なのではないだろうか。そして、そこで豊かになった感性が後の社会を豊かなものにするのだろう。

同じものを見るにしてもとらえ方が年齢によって違う。したがって、そのことが人生に与える影響も違ってくる。
例えば、見たこともないような綺麗な海を10代でみるのを30代でみるのでは全然違う。私も14歳でアメリカの何とも言えない大きさを経験していなければ30歳にして海外に行くことはなかったように思う。

日本もこれから人口が減り、社会の規模が小さくなっていくことが予想される。もうすでに始まっているのだろうが一流大学をでたって就職が無い時代がくるだろう。中国や韓国はすでにそうなっている。そして、その人たちはどんどん海外に飛び出している。必然的に飛び出さなくてはいけないのかもしれない。我々も、今とは違った価値観が求められる。そのような時代が来た時には、新しい柔軟な感覚をもった若い人達が活躍する番だ。そうすれば、多少の失敗だってあるでしょう。

でも、その時は、「何回転んだって、休んだってやり直しがきく社会、時代」になっていてくれると良いなと思う。





2013年4月15日月曜日

第38回:技術を学ぶということ

私がオステオパシーに魅力を感じたのはなぜなのだろう?

それは、漠然と患者さんを手で治すことができそうと感じたから。

アンドリュー、ワイルやロバート、フルフォードの本を読んでいくなかで、その思いはより強くなった。
特に、フルフォードの「いのちの輝き」 には、とても魅了された。天気により患者さんの状態が変化することをみつけ、本人も自然の力を感じて生きている。

オステオパシーというのは医療哲学であり、その形式にはっきりと決まった形はない。決まった形にすることを創始者であるスティルも望んではいない。原則を理解して、自分なりの治療を見出す事を期待していた。

故に、自分がオステオパシーの原則をどのように理解し、どのように表現していくかということを探究していくことがオステオパシーなのだ。

手技は別として、生きているうちに答えがでるのかはわからない。

以前、お寺で修行している雲水さんと話した時に、悟りとは?という質問に対し、「空っぽの胃に、米粒を1つ、1つ食べて行き、いつかお腹いっぱいになるようなもの」と説明してくれた。そして、「もしかしたら、死ぬまでにお腹いっぱいにならないかもしれない」とも言っていた。

最近は少しその意味がわかる。治療を通して、自分をみつめ、人間そのものをみつめる。

いろんなところで、「瞬時に効く」「一発で治す」「このツボを押せば効く」などの広告を見る。そのように人生の早い段階で、何かに出会うことができるということは治療家としてラッキーのようではあるが、身体を治すという感覚においては何とも言えない違和感を覚える。

身体というものは、良くなるのだろうか?
そもそも、本当に悪いのだろうか?
痛みの強さと症状のひどさは100%関連性をもっている?
同じことをしていても痛みを感じる人と、感じない人の違いはなんなのだろう?
同じ動作で痛くなるときと、ならない時の違いはなに?
治療をしないと身体は良くならないの?

このようなことをいろいろ考えていると、フルフォードの治療家としての生き方には魅力を感じる。
きっと鍼灸の世界にはもっとたくさんの偉人がいたのだろう。 いまのいるのかな?
 
今日、会社の代表が、ある院の壊れたキーボードを見て「まず、こういうのを直さないと、身体を治せる気がしない」と言った。そういう感覚って大切だなって思う。

治療っていうのは、手技だけではない。でも、いろいろなことを含めて手技となるのだろう。その価値を大きくするのも、小さくするもの自分次第だ。患者さんの前で行っていること全てが技術で、そのなかで手で行っているものが手技。

技術=自分。

まだまだ、できることはたくさんありそうだ。



2013年4月14日日曜日

第37回: Diagnosis (診断)とPrognosis(予後)

オステオパシーの特徴には診断と予後がある。ほかのところは、分からないが 私が通っていたビクトリア大学は筋骨格系の治療に力を入れていたので必然的に診断と予後にも正確性が求められた。

私が、オーストラリアに行って一番良かったと思えることは、この診断と予後の導き方を理論的に教えてもらったことだ。どんな手技よりも良かったと思っている。そして、私が一番苦手だったのも、この診断と予後だ。というのも、日本にいる時は、そのような発想で治療していたことがなかったからだ。なんとなく患者さんの症状には対応するが、どの組織に問題があり、どのような過程を経てどのくらいで治って行くかなど考えたことはない。いつの間にか、長く通っている患者さんを良い患者さんと考えたりもしていた。結局は、集客はできても、治してはいなかったのだと思う。

これは、あくまで私の勝手な考えだが、日本で良い治療と言えば「一発で治す治療(直後効果が強い治療?)」と考えられているように思う。 したがって、何をどのように治療しているのかが見えずらいし、当然、患者さんも分かりずらい。でも、日本の人(患者さんも術者も)は、そのミステリアスな部分を比較的好むように思う。同じような疑問を持って私のところにくる外国人の患者さんには、「文化的な相違では?」と説明する。でも、治療に100%正確な答えがない事を考えるとどちらでも良いように思う。実際、一発で治すというのは、心の問題(プラシーボ)を解決している側面が強いように思う。

話を本題に戻すと、オステオパシーでは、「良い治療計画は、良い診断より導かれる!」と考えられている。これは、世界共通なのではないかと思う。
問診が終わった時点で、最低でも3つくらい鑑別診断がでていることが、理想的だ。もし、鑑別診断が出てこなければ、問診が不十分ということになる。何が問題で症状になってきているのかが、分からない間は治療をしてはいけない。これは、患者さんのためでもあるし、自分自身のためでもある。

ここに至るためには鑑別診断を行うための知識、そして、それを見分ける問診力が必要になる。

そして、実際に患者さんを検査して診断まで落とし込む。これは、ただ単に悪いところを選ぶのではなく、同時に、原因、関連性、その他の複合的な要素を含んで考える。したがって、診断名は、A4で3~5行くらい長いものになる。

大学の付属クリニックでも、先生と治療法のことで話すことはほとんどないが、この診断名に関しては、毎日長いこと話し合う。結局、診断するまでの筋道がしっかりしていないと、きちんと説明することができない。そこを突っ込まれると、必死に考えながら説明することを求められるし、先生が言っていることが、違うと感じた場合には、どうして違うのかを理論的に説明することを求められる。筋道が通っていれば、先生もこちらの意見を尊重してくれる。オーストラリアの人は、議論好きなので嬉しそうに話していたが、私には、この時間がとても辛かった。

診断がでて、患者さんにある程度の効果がみられれば、あとは、どのくらいで治って行くかだ。それが予後になる。患者さんも自分がどのように治っていくのかをはじめの段階である程度分かる。

前にも書いたが、骨折では、治癒期間があるからと言って一発で治そうとしないのに、筋肉やその他の軟部組織の時だけ、勇猛果敢に挑んでいくのは面白い。もし一発で治るなら、誰がやっても一発で治る。 それが「オステオパシー」だ。そこにトリックは必要ない。

先日も、他の先生から「このような患者さんがいて、全然治らないのだけど、どうすればいい?」という連絡を頂いた。この様な質問は、とても重要だ。具体的にはあまり書くことができないが、これは、まず診断までの筋道ができていなかった。したがって、何を治療しているのか。そして、それはどのくらいで治るのかが明確でない。いつも一発でを期待するので、ある程度治療して効果が見えないと不安になる。

こう言う時ほど、はじめに戻って、話を聞き。原因、部位、体質、体調などなどいろいろ含めて総合的に判断しなおすべきだ。あるいは、自分で治せるのかも考えなくてはならない。

いろいろな問題を抱えている患者さんが多いので、いつも、いつも綺麗に診断まで落とし込めるわけではない。 そういうときは、筋道を2つ、3つ作ればよい。そして、患者さんが来院して、治療から自立するまでにどのくらい掛かるか、特に、筋骨格系の治療であればイメージできたほうが良い。私は、筋骨格系以外の治療の場合は、治療から自立する時期は、患者さんに決めて貰うようにしている。あくまでも、自立は促すが。

柔整の保険制度の変更があり、3か月以上の治療に影響がでてくるようだ。しかし、一般的な筋骨格系の問題は、だいたい3か月以内には解決する。それ以上掛かる場合は、その他の要素も考えなければならない。そういった意味では、制度と内容があってきているのかもしれない。むやみに身体をさわる行為は、逆に患者さんを増やすことになる。治しているのか、増やしているのかがわからない。これは、薬などもそうかもしれない。依存を生んではいけないのだ。

診断と予後をやることによって、患者さんの医療からの自立を助けたい。無病息災ではなく、有病息災でも良いのだ。痛みや不調に負けることなく、人生を楽しく過ごして頂きたい。