2013年5月30日木曜日

コラム:質と量2

先日「質と量」について書いたが、今日はそれにちょっと付け足しをしたいと思う。

「はじめに楽しさを教える!」

これは、いままでも繰り返しコラムで書いてきたことだ。

オーストラリアでは、スポーツを始めるとまずはそのスポーツは楽しいということを感じてもらうように指導する。
これは、スポーツに限ったことではなく学校なども同じように感じる。まずは、興味を湧かせる。そして、湧いた探究心を刺激してあげる。そうすれば自然とそのことに打ち込むようになる。

詳しくは分からないが、有名な"はなまる学習塾"もこのような考えを基にしているのではなかっただろうか(違ったらすいません)。

「楽しい」という感覚があるからこそ、そのことに打ち込める。

年齢やレベルとともに激しくなったとしても、自分が楽しいと思えれば頑張れる。必要と思える「激しさ」は乗り越えることができる。

「楽しい」→「上手になりたい」や「負けたくない」に欲求も変化していくのかもしれないが、その根底はそのことを好きかどうかということにある。

「自分がやりたいからやる」ということが大切だ。したがって、自分が望んでのきつい練習は意味をなす。反対に、心が燃え尽きているのに無理やりやらされることはいくらやっても意味がない。

小さい子にまるで「仕事」でも教えるように物事を教えたのでなかなかその楽しさは伝わらないだろう。

声を出せ、きっちり並べ、挨拶をしろ。ミスをするな。真面目にやれ。集中しろ。

無理、無理。

大人が面白くないことは、子供だって面白くない。自分たちが小さい時に嫌だ、つまらないと思ってたことを平気で強要する。この悪い循環をどこかで絶ち切れないものだろうか。

脳みそは、脳自体を成長させるために記憶をリセットするタイミングがある。そのリセットのタイミングにしっかりリセットさせないと、それ以上に詰め込むことができないために伸び悩みが生まれる。
小さい頃の英才教育がその後の人生にあまり意味をなさないのはこのためである。

最近うつ病など心の病気のことを耳にする機会が増えた。実際まわりでも悩んでいる人が増えたような気がする。ここでも大切なことは「楽しさ」だ。

自分がやりたいことを、自分のペースでやりたいようにやっていれば心の病は生まれない。
自分の心がときめいているのか。楽しいか楽しくないか。
自分の心を自分で縛らないようにすることだ。

しかし、小さい時に「仕事」を教えられてしまうと、大人になっても「楽しさ」を見出すことができなくなってしまう。むしろ「苦しさ」になってしまう。

「量をやれば質も上がる」という言葉を聞く。もちろんこれにも一理ある。しかし、この前提には自分からやりたいという気持ちや意図が必要となる。

メジャーリーガーの松井選手が入団当初から長島監督と素振りの練習をしていたと言っていた。
素振りという単調な作業を毎日1時間半行っていたそうだ。意思と意図がなければ継続できないし、上達もしなかっただろう。むりやり1時間半の素振りを強要されても続けることすら難しいだろう。

自分の中からあふれる欲求。これを見つけ、追及することができるかが重要だ。

だからこそ、人生の早い段階で「物事の楽しさ」を体験しなくてはならない。ほっといても厳しさはやってくる。それを自発的に乗り切るのか、無理やりなのかでは大きな違いとなる。

日本は、決まっていることをやることにおいては他の国を圧倒していると思う。ただ、発想や創造といった分野では後れを取っている。「恐怖」ではなく、「楽しい」をモチベーションに行動されては敵わない。「恐怖」はミスを恐れてしまうので、創造しなくなるし、チャレンジしなくなる。

「量より質」。自分の心が燃え尽きる前まで集中して行う。課題や意図をもって行う。短時間でも効果がある。
「質より量」。これは自発的に行わない限りは意味がない。もちろん意図も必要だ。

小さい子に何かを教える責任は大きい。その後の人生を左右してしまうのだから。

私も4人の子の親として何かに「楽しさ」を感じてもらえるようにしていきたい。



2013年5月28日火曜日

第40回:生き方を変える。

先日38回目の誕生日を迎え、本当にたくさん方からメッセージを頂いた。感謝、感謝。

その中に印象に残る言葉があったので、今日はそのことについて書いてみようと思う。

その言葉とは、「心もカラダも本当に変わりました」という一人の女性からのメッセージだ。
なぜ、この言葉が印象に残ったのかというと、「変わりました」という言葉に感動したからだ。

でも、私の感覚からすると「変わりました」ではなく、「変えることができました」なのである。

私は治療を通して2つのことをする。それは、身体のバランスが最適と思われる状態にすることと、より最適な状態に近づける、或いは、その状態を保つことができるようにいくつかのアドバイスをすることだ。

このように書くと「変わりました」でも良いように思えるかもしれない。実は違う。

私が身体を最適なバランスにするのではない。そのためのきっかけは与えるかもしれないが、あとは刺激を受けた身体が行なってくれる。身体には元来自然治癒力があり、ホメオスタシスという身体を常に一定に保とうとする働きが備わっている。それだけのことだ。

オステオパシーの創始者AT.スティルも「Find it, Fix it, and Leave it」と言っている。つまり「見つけて、治して、あとは放っておけ」ということだ。ここでいう"it" が何を指しているのかが重要になる。

身体が本来持っている治そうという力を信じることができるかどうかが大切だ。信じれば身体は必ず応えてくれる。あとは、それを待てるかどうかだ。

ここまではが私が少なからず関与できること。しかし、もうひとつのアドバイスへの反応は患者さんに委ねられる。

私は、身体が最適な状態に近づくことができるであろう事柄についてアドバイスをする。
生活習慣、食事、運動などなどそれは多岐にわたる。人によっては少ない時もあれば、とても多くの事柄を指摘する場合もある。

オーストラリアでは、自分が処方したアドバイスにもしっかり責任を持つように言われる。処方したアドバイスを患者さんが行なわない場合は、その責任は治療する側にあるというのだ。
でも、ここで重要になるのは患者さんにも責任があるということを認識してもらえるかだ。
いろいろ説明はするが、最終的にやるか、やらないかの判断は患者さんがする。

やるか、やらないかの間には何が介在しているのだろう。どちらにしても患者さんの選択だ。
いかなる選択にしても自分で選ぶということはとても大切だ。そして、行わないという選択肢を選んだ背景を考える。少しづつ見えてくる。

したがって、ここでも「変わりました」ではなく、「変えることができました」になる。やるという選択を自分でしたからだ。

症状とはその時の身体の状態を知らせてくれているサインだ。そのサインから原因であろう事柄を見つけ、その事柄を治すために必要なことを実行する。あとは、野となれ山となれ。「Find it, Fix it, and Leave it」。"it"が見えてきましたか?

今までの生き方では身体の良い状態は保てませんよ!と身体が教えてくれている。そうなればいままでの生き方を変えるだけだ。そして「心もカラダも本当に変わりました」となれば最高だ。

ちなみに、このメッセージをくれた方は、妊娠6カ月目に突入。夏が終わったころにはママになる。

つわりは大変そうだったが、それも楽しそうに?!乗り切り、妊婦さんライフを見事に満喫している。
お母さんがハッピーであれば、お腹の中のベイビーもさぞ快適なことだろう。ハッピーな子が生まれてくるはずだ。

今年も素敵な誕生日になりました。

2013年5月24日金曜日

第39回:オステオパシーとは?

オステオ日記といいつつ、オステオパシーから離れてしまうことも多いこのブログ。まぁそれも含めてオステオパシーなのですが。今日は、久々に本流オステオパシーについて書いてみる。

幸運なことに5月より骨塾(ほねじゅく)というオステオパシーの講座を26名の方々とともにスタートすることができた。感謝!全44回、約2年にわたるコース。これが最初で最後のコースという気持ちで全力疾走しようと思う。

オステオパシーとは?とても難しい。説明も理解も難しい。しかし、説明しなくてはいけない。

そこで、今私が感じているオステオパシーを説明させてもらった。

オステオパシーは哲学なのか?手技なのか?
オステオパシーは哲学です。

「骨の両端」を理解すること。骨の両端とは、解剖をしっかり理解することを意味すると同時に、「生と死」を考えることも意味している。

解剖への理解を深める。これは実に明確で理解しやすい。しかし、「生と死」は簡単ではない。
人はなぜ生まれ、なぜ死ぬのか。それだけではなく、健康、病気、治癒、人間、自然、宇宙などなどさまざまな要素を感じ、考えることなのではと解釈している。

それらが、「三位一体」=「身体、心&魂」の理解へとつながり、オステオパシーの原則の理解へつながるのだろう。

したがって、オステオパシーとは?への応えは個人、個人違って良いと思うし、正解もなければ間違いもない。自分で見つけることだ。

そして、それを「探究しつづける」ことになる。その時々で変わっていくこともあるだろう。

やっぱりオステオパシーは哲学だ。

そして、その自分の哲学を表現する方法が「手技」になる。

オステオパシーの創始者AT.スティルは、哲学、原則を教え、語りあったが、彼の手技を教えることをしなかった。彼は、哲学や原則をもとに生徒たちが自分たちに合った治療法を生みだしていくと強く信じていたからだ。したがって、教えられた手技をそのままやるとこを「愚かなこと」と言った。これは、サザーランドにしても、フルフォードにしても同じ考えであったようである。

今のオステオパシーは、この考える作業を排除してしまっているので、「愚かなこと」の繰り返しになっている。手技に上も下もない。いかに使うかが大切になる。これが「Intention=意図」だ。どの手技もその「意図」があるかないかで大きな差が生まれる。生きた手技になるのも、そうでなくするのも「意図」にかかっている。

その意図を生むのが「自分の哲学」になる。やはり考えなくてはならない。「探究しつづける」。
必然的に「探究しつづける」ことになる。

だいたいの手技は、そうした「意図」から試され、効果があることがわかり、他の人が真似をしても効果がみられた。そうすると、それを普及するために理論が必要になり後付けされているのではないだろうか。したがって、その「意図」が無視されると理論はあっても効果はでない。

フルフォードは、周りからいろいろ言われても諦めずに続けることだと言っている。続けられるかどうかは、「意図」にかかってくる。

少しややこしくなってしまったので整理をしてみる。

哲学:「骨の両端」と「三位一体」の理解。生、死、人間、自然、健康、病、、、。を自分なりに考える。

それを手技を使って表現する。そして、その哲学(自分の考え)と手技の間に「意図」が存在する。

人生をかけて「探究しつづける」。

これが、今現在私が考えているオステオパシーです。自分の人生や生き方を見直すことから始まるような気がします。皆さんのオステオパシーってどんなかんじですか?



2013年5月23日木曜日

コラム:質と量

最近、オーストラリアのプロラグビー選手を治療している関係で、日本のラグビーについていろいろ聞くことができる。
その内容がとても興味深いので書いてみたいと思う。

日本とオーストラリアのラグビーの違いについて聞いたところ「オーストラリアでは練習の質が重要視されるが、日本ではいまだに量が重要視される」という応えが返ってきた。いきなり核心をついている。いきなり過ぎて返す言葉も見つからない。納得。

これは、サントリーで活躍し、今はブランビーズで驚異的なパフォーマンスをしているジョージ・スミスも同じことを言っていたようだ。ジョージがオーストラリアに帰ってインタビューを受け「日本のラグビーは、練習は長いが試合数が少ないのでコンディションを整えるには良い」と応えている。

そして、オーストラリアでは、「常に量よりも質を重要に考えるように」コーチに言われるようだ。日本では、いつまでも練習していることが良いことだろう。これは、スポーツだけでなく、いつまでも会社に残っていることが良くて、早く帰ろうとすると冷たい目線という日本の社会全体にも反映している。「質より量」は日本の社会の根本的な考え方なのだろう。

スポーツを始めたころはそのスポーツの楽しさを教え、いざ本格的にプレイするようになったら量よりも質を追及していく。

言葉にすれば大したことではないのだが、意識するところが違う10年~15年は成長度に大きな変化をもたらすように思う。年齢とともに、楽しいから勝ちたいにかわり、自然とうまくなりたいという気持ちが芽生える。自然にというところが重要となる。

今回、日本の男子バレーの監督に日系アメリカ人の監督が就任した。アメリカでの実績は申し分ない。いままでは、コートで歯を見せるなという典型的な日本のスタイルでやっていたのが、練習のための練習はしないということで、試合の場面、場面にあった練習スタイルに変わったようだ。これがどのように成績につながっていくのかとても楽しみだし、ぜひとも良い結果がでてもらいたいとも思う。日本の選手は始めてプレーする楽しさを知るのではないだろうか。

日本の野球選手もメジャーに行ってその練習法に戸惑うという話を聞く。特に、ピッチャーは投球制限などの関係で調整が難しいようだ。これは、肩は消耗品という考えがあるからなのだろうが、裏をかえせば、「質より量」から「量より質」の変化に戸惑っているのではないだろうか。そして、その背景には、なぜ多く投げる必要性と不必要性という疑問を解消しなくてはならない。

私もオーストラリアにいた時に、勉強の仕方の違いに戸惑ったことがある。私は暗記人間だったので、何でも理解する前に、模範回答を作ってやみくもに暗記していくのだが、オーストラリアの友達は、その問題を細かく分解し、自分の言葉で、自分が納得できるように理解していく。テストの点は私のほうが良くても、その後、その知識を臨床に活かしていくタイミングになると大きな差が生まれている。この違いに気が付き、勉強のやり方を変えようとしたが、はじめはとてつもなく大変で、終わりがないように感じた。しかし、慣れてくるとそのほうが、点と線がつながるように理解が広がっていくので結果的には、効率的だと気がついた。

ラグビーに話を戻すと、日本ラグビーのシステムの問題も指摘していた。オーストラリアでは、本格的なラグビーの教育は16歳から始まり、20前後でプロ契約し、FWで24歳。BKで22歳くらいでナショナルチームに選ばれ始めるようだ。日本でも本格的に始まるのは16歳くらいで、大学に行き、トップリーグに入るのが22歳。このように書くと年齢的には同じようだが、彼がいうには、トップチームに入ってきたタイミングで身体ができていて、戦術を理解できるプレイヤーが少ないといい、日本は、22歳からラグビーを本格的に始めるから代表に選ばれるのが27,8歳になるという。それでは遅すぎというのだ。確かにSuper15をみていると、若い選手が多い。たまに10代の選手をみる。

彼は、ある一部の大学を除いては、きちんとした指導者、コーチがいないのではないかとも指摘していた。大学でいないのだから、高校ではさらに厳しいだろう。高校のときからきちんとしたウエイトトレーニングのやり方をしっているか、栄養について知っているのかだけでもその後の成長には大きな差となるし、もちろん戦術面ではその差は歴然となるだろう。

高校である程度実力があるプレイヤーは、大学に行きながらでも、ダイレクトにトップリーグに進み早い段階で戦術の理解や、肉体をつくり始められないのだろうか。2019年に日本でワールドカップが開催される。楽しみんで仕方がない。ホスト国として日本のラグビーが今以上に盛り上がってくれることを切に願う。それには、実力をつけなくてはならない。今の代表もとても力をつけてきている。過去最高なのは間違いない。しかし、それ以降も若い選手がどんどんでてこなければ盛り上がることはないだろう。今年Super15に2人の日本人がデビューした。日本のラグビーの夜明けだ。
どんどん続いてもらいたい。サッカーだって10年前はヨーロッパでプレーする選手は少なかった。きっとできるはずだ。

「量より質」。運動も会社も、そして、治療も同じだ。

でも、今この瞬間にも、日本中の中学や高校のグランドで理不尽に長い練習が繰り返されているのだろう。
軍国主義の名残。勝利至上主義。

少しづつ変わって行くといいなぁ。