2013年5月24日金曜日

第39回:オステオパシーとは?

オステオ日記といいつつ、オステオパシーから離れてしまうことも多いこのブログ。まぁそれも含めてオステオパシーなのですが。今日は、久々に本流オステオパシーについて書いてみる。

幸運なことに5月より骨塾(ほねじゅく)というオステオパシーの講座を26名の方々とともにスタートすることができた。感謝!全44回、約2年にわたるコース。これが最初で最後のコースという気持ちで全力疾走しようと思う。

オステオパシーとは?とても難しい。説明も理解も難しい。しかし、説明しなくてはいけない。

そこで、今私が感じているオステオパシーを説明させてもらった。

オステオパシーは哲学なのか?手技なのか?
オステオパシーは哲学です。

「骨の両端」を理解すること。骨の両端とは、解剖をしっかり理解することを意味すると同時に、「生と死」を考えることも意味している。

解剖への理解を深める。これは実に明確で理解しやすい。しかし、「生と死」は簡単ではない。
人はなぜ生まれ、なぜ死ぬのか。それだけではなく、健康、病気、治癒、人間、自然、宇宙などなどさまざまな要素を感じ、考えることなのではと解釈している。

それらが、「三位一体」=「身体、心&魂」の理解へとつながり、オステオパシーの原則の理解へつながるのだろう。

したがって、オステオパシーとは?への応えは個人、個人違って良いと思うし、正解もなければ間違いもない。自分で見つけることだ。

そして、それを「探究しつづける」ことになる。その時々で変わっていくこともあるだろう。

やっぱりオステオパシーは哲学だ。

そして、その自分の哲学を表現する方法が「手技」になる。

オステオパシーの創始者AT.スティルは、哲学、原則を教え、語りあったが、彼の手技を教えることをしなかった。彼は、哲学や原則をもとに生徒たちが自分たちに合った治療法を生みだしていくと強く信じていたからだ。したがって、教えられた手技をそのままやるとこを「愚かなこと」と言った。これは、サザーランドにしても、フルフォードにしても同じ考えであったようである。

今のオステオパシーは、この考える作業を排除してしまっているので、「愚かなこと」の繰り返しになっている。手技に上も下もない。いかに使うかが大切になる。これが「Intention=意図」だ。どの手技もその「意図」があるかないかで大きな差が生まれる。生きた手技になるのも、そうでなくするのも「意図」にかかっている。

その意図を生むのが「自分の哲学」になる。やはり考えなくてはならない。「探究しつづける」。
必然的に「探究しつづける」ことになる。

だいたいの手技は、そうした「意図」から試され、効果があることがわかり、他の人が真似をしても効果がみられた。そうすると、それを普及するために理論が必要になり後付けされているのではないだろうか。したがって、その「意図」が無視されると理論はあっても効果はでない。

フルフォードは、周りからいろいろ言われても諦めずに続けることだと言っている。続けられるかどうかは、「意図」にかかってくる。

少しややこしくなってしまったので整理をしてみる。

哲学:「骨の両端」と「三位一体」の理解。生、死、人間、自然、健康、病、、、。を自分なりに考える。

それを手技を使って表現する。そして、その哲学(自分の考え)と手技の間に「意図」が存在する。

人生をかけて「探究しつづける」。

これが、今現在私が考えているオステオパシーです。自分の人生や生き方を見直すことから始まるような気がします。皆さんのオステオパシーってどんなかんじですか?



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