2013年1月29日火曜日

第34回:対症vs根治


Facebookのオステオパシーに関するフィードで上の写真を使った記事をみつけた。
直訳すると「時間をかけて身体を治しているか、ただ症状を隠しているのか?」という問いかけだ。

対症療法に対する根治療法。みなさんは不調を感じた時どちらを選んでいるだろうか?
風邪をひいた時。
血圧が高い状態の時。
肩こりがひどい時。
腰痛になった時。
頭痛に悩まされている時。
心が沈んでいる時。

治癒とはなんなのだろう?
Wikipediaでは、次のように定義されていた。
「治癒(ちゆ)とは、体に負った傷、あるいは病気などが完全に治ることを指す。」

さらに、
「しかし、「治る」ということを「健康体に戻る(健康体 = 非病気の状態になる)こと」あるいは「元の状態に戻ること」のように解釈した場合、大きな怪我であれば傷痕が残るなどの後遺症があるため、たとえ治療が終了したとしても、それを治癒と呼べるかどうか微妙な問題をはらむ。さらに、遺伝的(体質的)な問題がからむ病気やいわゆる不治の病である場合、治癒というのは存在しないことになる。」らしい。

私にとっての治癒とは、医療からの自立だ。病院に行かなくて良い状態。薬がいらない状態。治療を必要としない状態。
治療をしていくと同時に自立を促す。はじめは、多くの患者さんが自立していくことに不安を感じる。今まで他人任せの医療の中にいたからだ。
治療が進むにつれて、患者さんは自ら水分摂取量を改善し、食事を改善し、悪い習慣を変え、考え方を改善していく。これは提供されたり、自分で調べたりして得られた情報により自発的に行われなくてはならない。したがって、治療期間はこれらに左右される。

自らの身体に、自分で責任を持つ。
なぜ、なかなか症状は改善しないのだろう?
なぜ良い時もあるのに、不調を感じる時があるのだろう?
なぜ、同じことをしても大丈夫な人と、不調を感じる人がいるのだろう?
そもそも不調とは?では、無病という状態は存在するのだろうか?

「何があっても医療にかからない」のように極端な思想はもちろん良くない。何事も極端は良くない。余計に身体をおかしくする。

でも、日ごろから不調にならないような努力、そして、不調を感じた時に自ら治そうとする努力が必要なのではないかと思う。一日でも早く医療から自立する努力。

はじめはとても難しいのかもしれないし、ひとりでは難しいという人もいるでしょう。しかし、ある程度のきっかけや情報があれば多くの方が意識することができる。そういう情報やきっかけを提供し、努力の手助けをするのがオステオパシーであれば良いなと思う。



2013年1月23日水曜日

第33回:最善の医療

先日部屋の掃除をしていて、たまたま掴んだ本にとても興味深いことが書いてあった。
その本とは、大分前に読んだ文芸春秋なのだが、その中のあるコラムがとても気に入りとってあったのだ。すっかりそのことすら忘れていたのだが、掃除をきっかけにまた読むことができた。
やはり掃除はするべきだ。

「医療は格段に進歩した。だが、単純に信じてはいけない。自分にふさわしい最善の医療を患者1人ひとりが選ぶ時代になったのだ。」という書き出しから始まっている。

「いい医療とは何か? という問いには、結局のところ、人間が生きる目的はどこにあるのか、という問題に帰着すると思います。人間は生まれた時から、死に向かってまっしぐらに駆けています。~中略~元気で長生きできるかは人がもって生まれた身体や運に大きく左右されます。だから、常にどう生きるか、どう死ぬかを考えておくことです。」

このコラムはある医師と作家の対談を基に書かれている。
その中の医師の言葉。
一読すると無責任のように感じる人もいるかもしれない。しかし、私はこれはある意味では真意をついていると思う。

身長、体重、肌の色、髪の毛の量、体質などなど。どのように考えても全ての身体自体が平等に作られてはいない。
同じ心臓にも誤差はある。肝臓も、腎臓も、そして、脳も。
そんななかで地球上すべての人が120歳まで生きるなんてことはあり得ない。

しかし、われわれにはどのように生きるかを選択することはできる。逆にいうとそれしかできない。
健康に生きるか、それともそこには執着しないでいくのか?
結果はどうなるかはわからない。でも、どのように生きたかの違いは生まれる。

健康に生きる。

では、どのように健康に生きるのか?

まず、正しい情報を集めることだ。今はインターネットで検索するだけでも多くの情報を手に入れることができる。
自分の病気の原因はなにか?
医食同源。できているか?
運動。自分にあっているか?
身体に害になることってなにか?

個人、個人でこの様なことをしっかり行っていけば、実は医療などは緊急時や死に関係する時以外は必要なくなる。でも、極端すぎるのも良くない。
どこか悪くない人なんていない。一病息災。それでいいんだ。そして、その一病を見つめていくと、自分に必要なことが見えてくる。それが健康だ。

治療する側は、自分のため、患者さんのために正しい情報を集める。そして、 患者さんは、全て治療する側に任せるのではなく、少しづつ健康に興味をもち、正しいことを選んで行く生き方をしてくことが必然的に大きく膨らんだ医療費を縮小させ、本当に必要な事に使っていけるのではないかと思う。

2013年1月11日金曜日

コラム:ものの教え方&運動の仕方3

先日、高校生が部活の顧問から体罰を受けたことにより自らの命を絶ったというニュースを聞いた。

体罰と自殺が100%の関係かどうかはわからないが、きっかけになったことは間違いないだろう。

以前にも書いたが、「人は自分が教えられたようにしか教えることができない」と言われている。
自分で気が付き変えようとしない限り、そのようになる傾向にあるようだ。

きっとこの顧問の先生もこの様な環境で生きてきたのだろう。それは、部活でだったのか、親からだったのかは分からないけど。

日本はこの部分は戦前と何も変わっていない。変わっていないと言うことは、多くの人々がそこまで問題に思ってきていなかったからとも言えるだろう。

実際、今回もこの顧問を擁護する意見もあるようだ。それが当たり前だと思っている人にとっては何も問題ではないのだからそういう意見があってもおかしくない。そして、そのような人が教育する立場になって同じことを繰り返す。このサイクルは永遠に続く。

体罰。恐怖を植え付けることでうまくなる。叩かれたくないからきちんとやる。一番簡単な管理方法。

実は、こう言うことは日常にあふれている。家庭でも、学校でも、会社でも。
権力を手にすると、体罰までしないにしても、威圧的に接したり、発言したり、恐怖で管理しようとする人はいくらでもいる。体罰をする人ももちろんいるだろう。

オーストラリアであった本当の話し。
オーストラリアに来て間もない日本人のお母さんが、子供を連れて公園に行って遊んでいた。公園で遊んでいるうちに子供があまりに言うことを聞かないので、日本にいた時のように子供のお尻を叩いた。しばらく遊んで家に帰ると家に警察が来て事情を聞かれた。

まさか、まさかの本当の話しである。
公園で体罰したのを見ていたオーストラリア人のお母さんが彼女が乗ってきた車の番号を控えて警察に彼女が体罰をしていたと通報していたのだ。

ところ変われば「体罰」とはこういう扱いである。

子供は完全体で生まれてくる。その完全体は、その後の教育によって少しづつ不完全になっていく。恐怖を植え付けられ、ほっとかれ、否定され、無視され、どんどん不完全になっていく。そして、成人になりそれらの経験が病を生む。うつになったり、慢性の病を抱えたり、自己免疫疾患になったり。自分になかなか治らない病がある人は、一度自分の幼少期を振り返ってみると良い。

まずは、立場に関係なく意見を言い合えるようにしなくてはならないと思う。親と子。先生と生徒。先輩と後輩。上司と部下。どれもくだらない枠組みだ。枠組みの前に人と人である。

野茂選手がアメリカに渡った時に、「ここは誰にでも平等だ」という感想を述べた。これは野球に対してのことだったのかもしれないが、私は違う側面もあると思う。人は立場ではないんだ。それでも、人に対する尊敬は自然に生まれてくる。

今、多くの日本の子供たちが英語を習っている。いまの成人でも英語を話せる人はいくらでもいる。中学英語でも十分会話は成り立つ。でも、なんで日本人は英語が苦手と言われるか。日本人は小さなころから意見を言う機会を奪いつづけられて成長するからだ。 英語が話せないのではなく、人前で意見を言うことができないだけなのだ。親に意見を言えない。先生に意見を言えない。上司に意見を言えない。子供に英語などを教える前に、誰にでも遠慮なく自分の意見を言える環境を作ってあげなくてはいけないと思う。

体罰、恐怖、威圧などは何も生み出さない。子供の羽を奪い取っているだけだ。
今回の件で再認識することができた。





2013年1月8日火曜日

第32回:雪解けを待つ。

今診ている患者様に71歳の男の方がいる。主訴は、右ひざ痛。昔、けがをしたのが影響していると言っていた。

いろんな治療を経験して、私のところに来てくれた。

初診時に感じたこと。膝にはほとんど問題がないということだ。多少の変形はありながらも他動的には全可動域問題なく動く。左右差もほとんどない。

それよりも気になったことは、身体の過緊張状態。頚部、背部、腰部の柔軟性が著しく低下している。頚部の緊張も著名なことから、既往歴、現病歴などにも注意をそそぐ。特に問題はないようだ。脳神経にも問題はみられない。

本人は、年齢的なものだと思っている。でも、それは違う。100人の71歳の人が皆同じように過緊張状態にあるのなら年齢的なものと言えるかもしれないがそうではない。

私は、身体を一つの袋のようなものと考えている。水が入っている袋を触っているような感覚で治療をする。頭から足までをそのように触っていく。健康であれば頭を触っても足に動きがみられる。腰を動かすと頭も下肢も連動して動く。連動して動けるかがとても重要になる。

今回はこの連動がほとんど見られない。これでは、膝を最大限に使うことができない。

治療は、硬膜や筋膜の緊張をとることに集中する。今まで何回か治療しているが、まだ膝は触っていない。この緊張が取れれば、袋の連動が生まれ膝は自然に回復をみせると考えている。そうなって残った痛みを治療すればよい。それまでは膝を触っても「治す」のは難しい。

70年かけて生じた緊張は半端ではない。それは、アルプス山脈にある氷河が解けるのを待っているかのように感じる。それは永遠に解けないのではないかと少し心配にもなる。
しかし、毎回しっかりと動きを感じる。そして、それは始めのころより確実に強くなってきている。
もう少しだ。もう少し待ってみよう。と自問自答。

先ほど、その方の今年初めての治療をした。この緊張はアルプス山脈にある氷河ではなく、富士山の山頂に積っている雪だったようだ。少し解けはじめていた。連動も生まれている。呼吸のパターンにも明らかに変化がでている。待って良かった。

患者様にそのことを伝えても「半信半疑」という顔をしている。それはそうだ。富士山の雪が少し解けたのを気がつく人はいない。しかし、もう少しだ。あと少しでその変化は自覚になる。

身体は確実に治す方向に向かい始めた。どの患者さんも必ず身体が治る方向に向き始める瞬間がある。こうなれば治療は終わったも同然だ。あとは、その力を助けていけばよい。

このままいけば春前には、緊張はなくなりそうだ。そうなったら膝は動き始める。それまでに下肢の筋トレをしっかりやっておいてもらおう。



2013年1月1日火曜日

第31回:Total body healing: Body, Mind and Spirit

Atsumi Total Careのコンセプトでもあるトータルケア。ここで言うトータルにはいろいろな意味が含まれています。
今日は、そのトータルのなかでも根幹の部分、そして、院のロゴでも表現している「Body, Mind and Spirit」について書いてみます。


Body
オステオパスは、自然治癒力を最大限に引き出すためにいろいろな種類の手技を用います。どの手技も肉体を通して使われるので、必然的にベースとなる身体が良い状態にある方が反応も良くなります。

Mind
オステオパシーでは、身体の全てのパーツが共に機能してはじめて、治癒力を生みだすと考えているので、脳も、そして、心もその全体のシステムの中に含んで考えます。したがって、オステオパシーでは、肉体にある問題は、心の問題も増長すると考えています。同じように、心の問題は、身体の問題を引き起こし得るのです。身体に何か起こっている時に、心に何か起こらないことはありません。

Spirit
前々回に書きましたが、今のところ、オステオパシーの中に明確にスピリチュアルと言っているコンポーネントはありません。しかし、最近では、東洋医学で言うところの「気」のように、身体の「エネルギー」を治癒を促進する力としてとらえているオステオパスが増えてきています。

私は、この3つを次のように考えています。MindはBodyの中に存在し、SpiritはBodyの外側に存在している。そして、この3つは常に影響しあい身体のバランスを保っている。

この3つが影響し合っていることは、この様なことからわかります。
  • 身体が治りたがっていていも、気持ちが治りたがっていないので治らない。
  • 身体が治るのに必要なエネルギーが不足していて治らない。
  • 心の問題を無視し続けた結果、筋骨格の問題として現れる。(逆もあります)
このように考えていくと、ぎっくり腰もうつ病も原因はそう大きく変わらないと言うことが分かると思います。いろいろな原因がありその結果が、心に出ればうつ病になり、骨格にでればぎっくり腰やヘルニアになる。 うつ病は、慢性の腰痛を生じさせ、慢性の腰痛は、うつ病を起こす。

逆に、これらの事柄に関係性がないとなると、ぎっくり腰が一回の治療で良くなるなんていうことを証明できなくなってしまいます。腰であれば椎間関節の捻挫でも通常の治癒過程では、痛みが取れるのに4-5日、機能が回復するまでにさらに1週間と考えられています。筋肉や靭帯の損傷であれば治癒過程はさらに長くなります。これがたった数分で治ってしまう。これは非科学的なことなのですが、臨床ではたびたび遭遇することがあると思います。どうしてこのような事が起こるのでしょう?

これは腰を治したのではなく、他の部分を治したと考えた方が良いではないでしょうか。患者さんは腰が痛いと言っているし、腰に熱感があるので腰の問題と考えてはみて、治療した。しかし、本当に腰は悪かったのでしょうか?ということになってきます。

骨折では、それぞれの骨に治癒期間があり、それを早くしたりする人はいません。大腿骨の骨折を一回で治す人はいませんし、小さな中手骨でさえ一回で治す人はいないのです。では、なぜ骨は一回で治せないのに、他の筋骨格の問題は治せるのでしょうか?

身体は治る状態にある時にだけ治るんです。それは、Body,Mind, and Spiritのバランスが良い時なのです。