2013年1月11日金曜日

コラム:ものの教え方&運動の仕方3

先日、高校生が部活の顧問から体罰を受けたことにより自らの命を絶ったというニュースを聞いた。

体罰と自殺が100%の関係かどうかはわからないが、きっかけになったことは間違いないだろう。

以前にも書いたが、「人は自分が教えられたようにしか教えることができない」と言われている。
自分で気が付き変えようとしない限り、そのようになる傾向にあるようだ。

きっとこの顧問の先生もこの様な環境で生きてきたのだろう。それは、部活でだったのか、親からだったのかは分からないけど。

日本はこの部分は戦前と何も変わっていない。変わっていないと言うことは、多くの人々がそこまで問題に思ってきていなかったからとも言えるだろう。

実際、今回もこの顧問を擁護する意見もあるようだ。それが当たり前だと思っている人にとっては何も問題ではないのだからそういう意見があってもおかしくない。そして、そのような人が教育する立場になって同じことを繰り返す。このサイクルは永遠に続く。

体罰。恐怖を植え付けることでうまくなる。叩かれたくないからきちんとやる。一番簡単な管理方法。

実は、こう言うことは日常にあふれている。家庭でも、学校でも、会社でも。
権力を手にすると、体罰までしないにしても、威圧的に接したり、発言したり、恐怖で管理しようとする人はいくらでもいる。体罰をする人ももちろんいるだろう。

オーストラリアであった本当の話し。
オーストラリアに来て間もない日本人のお母さんが、子供を連れて公園に行って遊んでいた。公園で遊んでいるうちに子供があまりに言うことを聞かないので、日本にいた時のように子供のお尻を叩いた。しばらく遊んで家に帰ると家に警察が来て事情を聞かれた。

まさか、まさかの本当の話しである。
公園で体罰したのを見ていたオーストラリア人のお母さんが彼女が乗ってきた車の番号を控えて警察に彼女が体罰をしていたと通報していたのだ。

ところ変われば「体罰」とはこういう扱いである。

子供は完全体で生まれてくる。その完全体は、その後の教育によって少しづつ不完全になっていく。恐怖を植え付けられ、ほっとかれ、否定され、無視され、どんどん不完全になっていく。そして、成人になりそれらの経験が病を生む。うつになったり、慢性の病を抱えたり、自己免疫疾患になったり。自分になかなか治らない病がある人は、一度自分の幼少期を振り返ってみると良い。

まずは、立場に関係なく意見を言い合えるようにしなくてはならないと思う。親と子。先生と生徒。先輩と後輩。上司と部下。どれもくだらない枠組みだ。枠組みの前に人と人である。

野茂選手がアメリカに渡った時に、「ここは誰にでも平等だ」という感想を述べた。これは野球に対してのことだったのかもしれないが、私は違う側面もあると思う。人は立場ではないんだ。それでも、人に対する尊敬は自然に生まれてくる。

今、多くの日本の子供たちが英語を習っている。いまの成人でも英語を話せる人はいくらでもいる。中学英語でも十分会話は成り立つ。でも、なんで日本人は英語が苦手と言われるか。日本人は小さなころから意見を言う機会を奪いつづけられて成長するからだ。 英語が話せないのではなく、人前で意見を言うことができないだけなのだ。親に意見を言えない。先生に意見を言えない。上司に意見を言えない。子供に英語などを教える前に、誰にでも遠慮なく自分の意見を言える環境を作ってあげなくてはいけないと思う。

体罰、恐怖、威圧などは何も生み出さない。子供の羽を奪い取っているだけだ。
今回の件で再認識することができた。





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