2013年4月15日月曜日

第38回:技術を学ぶということ

私がオステオパシーに魅力を感じたのはなぜなのだろう?

それは、漠然と患者さんを手で治すことができそうと感じたから。

アンドリュー、ワイルやロバート、フルフォードの本を読んでいくなかで、その思いはより強くなった。
特に、フルフォードの「いのちの輝き」 には、とても魅了された。天気により患者さんの状態が変化することをみつけ、本人も自然の力を感じて生きている。

オステオパシーというのは医療哲学であり、その形式にはっきりと決まった形はない。決まった形にすることを創始者であるスティルも望んではいない。原則を理解して、自分なりの治療を見出す事を期待していた。

故に、自分がオステオパシーの原則をどのように理解し、どのように表現していくかということを探究していくことがオステオパシーなのだ。

手技は別として、生きているうちに答えがでるのかはわからない。

以前、お寺で修行している雲水さんと話した時に、悟りとは?という質問に対し、「空っぽの胃に、米粒を1つ、1つ食べて行き、いつかお腹いっぱいになるようなもの」と説明してくれた。そして、「もしかしたら、死ぬまでにお腹いっぱいにならないかもしれない」とも言っていた。

最近は少しその意味がわかる。治療を通して、自分をみつめ、人間そのものをみつめる。

いろんなところで、「瞬時に効く」「一発で治す」「このツボを押せば効く」などの広告を見る。そのように人生の早い段階で、何かに出会うことができるということは治療家としてラッキーのようではあるが、身体を治すという感覚においては何とも言えない違和感を覚える。

身体というものは、良くなるのだろうか?
そもそも、本当に悪いのだろうか?
痛みの強さと症状のひどさは100%関連性をもっている?
同じことをしていても痛みを感じる人と、感じない人の違いはなんなのだろう?
同じ動作で痛くなるときと、ならない時の違いはなに?
治療をしないと身体は良くならないの?

このようなことをいろいろ考えていると、フルフォードの治療家としての生き方には魅力を感じる。
きっと鍼灸の世界にはもっとたくさんの偉人がいたのだろう。 いまのいるのかな?
 
今日、会社の代表が、ある院の壊れたキーボードを見て「まず、こういうのを直さないと、身体を治せる気がしない」と言った。そういう感覚って大切だなって思う。

治療っていうのは、手技だけではない。でも、いろいろなことを含めて手技となるのだろう。その価値を大きくするのも、小さくするもの自分次第だ。患者さんの前で行っていること全てが技術で、そのなかで手で行っているものが手技。

技術=自分。

まだまだ、できることはたくさんありそうだ。



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