2012年10月20日土曜日

コラム:モノの教え方&運動の仕方

本日は、モノの教え方と、子供の時期の運動の仕方を書いて行きます。

「人は自分が教わったようにしか、人にものを教えることができない」と言われている。

先日、子供を連れて近所の公園に行った時にたまたまやっていた少年野球を見て思いした言葉だ。この言葉が100%当たっているとは思っていない。でも、そんな出来事だった。

小学校の高学年の子供たちはグランドの奥の方。低学年の子供たちは手前にいる。野球少年たちはとても礼儀良く整列し、挨拶をしている。さすが日本だ!と感心して見ていた。オーストラリアではまずお目にかかれない光景だ。しかし、しばらくするとその思いは一転した。

「とれよ」、「どこみてる」、「おいっ」数人いるコーチ達から発せられた言葉だ。
ノックがはじまれば周りの子供たちはひたすら大きな声をだしている。声をだせばうまくなるのか。
低学年の子たちは、それでも必死にやっている。ひたむきだ。
うまくできない子には、まわりの大合唱とともにひたすらノックがつづく。
しまいには「考えろよっ」の一言。考えさせる教え方をしてないのに何を考えろと言うのだろう。
むしろ考えなくてはいけないのはあなただ。と思ってしまう。

私自身小さなころから、空手、相撲、柔道、ラグビーとそれこそこれ以上に厳しく指導されてきた。
したがって、オーストラリアに行く前の私には当たり前の光景であっただろう。 でも、このように感じたのは、オーストラリアで違う文化を経験したからだ。

オーストラリアでは、ある程度の年齢やレベルになるまで習いごとで怒られることなどまずない。特に低学年や始めたばかりのころは、いかにそのスポーツを楽しませるかに焦点が置かれる。打てない、とれない、決めれないなどは当たり前と考えられる。むしろ失敗しても褒められる。やっている方はとても気持ちよさそうだ。日本人の私には、もう少し厳しくしてくれよと思うことが多々あった。

では、オーストラリアのスポーツは弱いのだろうか。そんなことはない。水泳、サッカー、ラグビー、クリケット、テニス、自転車、トライアスロンなどなど世界レベルのスポーツであふれている。メジャーリーガー、NBAプレイヤーもいる。人口は日本の6分の1、2000万人。人種の違いだけが原因だろうか。

はじめに楽しさを植え付けられるので、子供たちはそのスポーツにどんどん興味がわいてくる。そして、自分はできると良い勘違いをする。したがって、失敗することを恐れない。これが日本との大きな違いのように感じる。サッカーで点が取れない。の原因をこう言う点にあるのではないだろうか。大きくなってこれを修正するのは難しい。相手はナチュラルで勘違いしいてるのだから。

最近、メジャーにいく日本人が多い。でも、活躍するのは少数だ。私が思うに、活躍している人は、小さいころから圧倒的に野球がうまく、ノックの嵐や怒られることが少ないうえに、自分で練習法や課題を見つけることができた人なのではないだろうか。そうすれば、小さい頃から自尊心を傷つけられることが少ない上に、いざアメリカの様なある程度自由なところに投げ出されても迷うことなく練習できる。後は、ナチュラル勘違いの程度が成功のカギを握っているように思う。

それともう一つ日本独自の文化がある。それは、1つの運動をひたすら続けるということだ。(もちろん、これは悪いことではない)。
オーストラリアの人たちは、去年はバレー、今年はラグビー、来年はテニス。夏は水泳、冬は自転車などいろいろな運動をする。

アメリカでもアメフトと野球のプロで活躍したボー・ジャクソンやディオン・サンダースという選手がいる。ウサイン・ボルトもマンチェスターユナイテッドの練習に参加した。そして、あのマイケル・ジョーダンもバスケをリタイアして野球にチャレンジした。ロジャー・フェデラーもサッカーをやっていた。

日本のプロ選手でそのようなことができる人がいるだろうか。実際には環境があればいただろう。ハンマー投げの室伏が野球をやっていたら。松井秀樹がテニスをやっていたら。などなどいろんな可能性があったでしょう。

高校生も、夏は野球、冬はサッカーなどいろいろやるようにしたらよいのではないでしょうか。そんななかでひとうのスポーツに特化したらそのスポーツに打ち込めばよい。でも、最低でも小学生の間はいろいろな刺激を身体に入れたほうがのちのち良いように思う。

しかし、これは文化的な背景によるものが大きいと思う。日本の人は一回始めたものを辞めると何となく負い目を感じる。部活ですら辞めると何かしらの挫折感を感じなくてはいけない。
オーストラリアの人は、無理に何かをやる事はない。嫌になったら辞め、やりたくなったらやる。
これにはどちらが良いとかではなく、むしろ、どちらも一長一短なような気がする。

学校や塾。いろいろなところでストレスを受けている子供たち。せめて習いごとぐらいはストレスフリーでも良いのではないだろうか。全員プロになるわけではないのだから。それに、プロになる子はほっといてもなる。私が育てたとか言うのはただのエゴでしかない。

戦前からの教育法がいまも残っている。これは、自分がそのように教わってきたからだ。我々の時は、人口が多く、個性を画一化するほうがいろいろ都合が良かったのだろう。しかし、これから人口は減っていくんだ何かを思い切ってできる子供たちを増やした方が良いように思う。



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